それについて説明する前に、
やはり李白「静夜詩」から。
牀前看月光
疑是地上霜
挙頭望山月
低頭思故郷
以下、拙訳。
寝床の前に月光が差し込む
まるで地上の霜のようである
頭を挙げると山月が望め
頭を下げると故郷のことが思い出される
これを試みに「パスティーシュ詩」にすると以下のようになる。
寝床の前に月光が差し込む。
とぼけるな!月が真円を描く夜こそ
サイヤ人がその本領を発揮する時ではないか。
戦闘力たったの5(笑)カカロット(笑)ブルーツ波(笑)。
「月にかわっておしおきよ!」
ということですね。わかりますわかります。
現代におけるパスティーシュもしくはパロディの難しさというのは、
その元ネタをどこから引いて来るのか、
元ネタとなるべきテクストがどこまで共有されているのか、
正確な予測が難しいという点にある。
これは拠るべき古典を喪失した
「近代日本における人文的教養の包括的地盤沈下」とでも
言い表せる状況かも知れない。
この作例では、
世界で最も売れたマンガ作品と、
90年代の日本において最もポピュラーだったアニメから
それぞれセリフを借用しているが、
それが理解されるかどうかは、
確実ではない。
そういった、インフラ的もしくは下部構造的な難しさがあるのだが、
だがパスティーシュという技法自体には、
大いに可能性や魅力があると私は考える。
知性、知力、知識、諧謔の精神といったものが
少なからず必要とされる手法であり、
現時点の私にそれを作成するだけの
力量があるのかどうかという不安はあるのだが。
(特に私は、自分自身の笑いのセンス、
ギャグセンスの無さを自覚している。)
また、過剰に凝り過ぎた趣向の作品を作ると、
アバンギャルドなものになり、
高橋源一郎の小説のように、
特定のマニアックな読者以外には
理解不能なものになりかねない。
しかし上手く的中すると、作者と読者の間に
緊密な相互理解が生まれ、知的な一体感を
感じることが出来るだろう。
そのパロディを理解するということは、
とりも直さず両者が共通の知的基盤に属するという事実の
経験的なレベルでの確認作業に他ならないからである。
それでも、少なくとも、ただ自分の感情を爆発させるだけの、
「シャウト系」の言語表現よりは、
幾分なりとも高級なものが生まれる可能性があるのではないか。
「シャウト系」の言語表現はファシズムに近い。
それはヒットラーユーゲントが最も好んだ手法であり、
若者がキャンプファイヤーを囲んで、
夜を徹して互いの悩みを打ち明け合って
一体感を共有するというイベントは、
ナチスドイツ時代に定式化された。
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