入口からいきなり違っている。リボンウオの一種の深海魚、リュウグウノツカイ(あんとくさま)の標本が、無い。どうして撤去されたのか、どこへ行ったのか、気になる。一番最初の展示スペースの水槽には、水が入って魚が泳いでいる。水族館だからそれで当然なのだが、以前はそうではなかった。このアクリルの向こうの閉鎖空間には青空の写真が貼られて、ミナミコアリクイの赤ちゃんが眠っていた。
珊瑚の海の海底から、カラフルな小さなアナゴが時々顔を覗かせる。ゆらゆらと揺れながらつぶらな魚眼でどこかを見ている。その様子が、女性達には非常に好評のようだ。ムーミンに出て来るニョロニョロにどこか似ているとふと思った。
もう休みは終っているので、子供の姿はないだろうと予想していたが完全に外れた。引率の保育士か教諭かに連れられて陸続と姿を現わす園児達。一群ごとに色違いの帽子を被っているのは、組の識別のためであろう。深海生物を展示した暗めの水槽で腹を見せてゆっくりと動く巨大な蟹に、男児達が一斉に群がり奇声をあげる。甲殻類のメカっぽい挙動にテンションが高くなる気持ちは、かつて少年だった者として良くわかる。今日は何だか騒々しくて奇妙な生物が大量に来たなと蟹の方でも思っているだろう。その気持ちも良くわかる。
そして、修学旅行か社会科見学かでやってきたと思われる制服姿の中学生か高校生。
潜水服を装備したダイバーのお姉さんが巨大水槽の中に入って行うパフォーマンスは、以前もここで見た記憶があるが、その時と比較して水槽の中も見学者が集う広場も、明るく見通しが良くなったように感じる。ダイバーが餌を振り巻きながら客の前を行ったり来たりすると、種種の魚達もそれを追いかけて盛んに泳ぎ回る。妖精に囲まれた天女である。またその姿をデジカメや携帯のカメラが追いかける。この夏はスキューバダイビングの宣伝を池袋駅南口の路上で良く見かけて、その時は何でこんなに大音量のJポップを鳴らしているのかとしか思わなかったが、こうして見ると知的で審美的な趣味である。もちろん、職業ダイバーとしてこんな晴れ舞台に立てるのは、ダイバーの中でも極一部、プロ中のプロ、エリート中のエリートなのだろうけれど。
お姉さんが砂の中に隠した餌を、何とか言う魚が下付きの口で巧みに吸い取って食べている。
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資金の問題を別にすれば、美術館はどこにでも出来る。田舎でも山奥でも出来る。長野県の美ヶ原高原、箱根の森、千葉の山奥の川村美術館など、僻地の美術館など私が知る範囲でも幾つでもある。コンサートホールや劇場は、さらに容易に、どこにでも出来る。しかし、水族館はそうはいかないだろう。水棲生物を扱うというその特性上、新鮮な海水や淡水の補給が恒常的に容易な立地、つまり海辺や水辺が基本的には望まれるはずだ。もしくは、大量の自然水の迅速な輸送が可能な、交通網の発達した土地。
駅の両側の二つのデパートにそれぞれ在った美術館が姿を消したことは、文化都市としての池袋にとって小さくない打撃であったであろう。特に、現代美術の展示と紹介に熱心で、ある時代のアートシーンやカルチャーシーンを先導したと言われる西武美術館の消滅によって、池袋の文化的イメージは大きく下落した。芸術劇場は現在工事中である。
しかしそれでも、池袋には水族館がある。
池袋の後背地は、東京城北部、多摩地域の一部、そしてその先の埼玉である。湘南新宿ラインの運行開始以後は、栃木と群馬もその勢力圏に組み込まれた。それら一都三県の植民地から、池袋はたえずプレッシャーをかけられる。東京六大ターミナル駅の一角に相応しい威厳と実力を、彼らに対して示さなければならない。
美術館は無くなった。劇場は休んでいる。しかしそれでも、池袋には水族館がある。
池袋には、海がある。
池袋には人工の海があって、それはビルの屋上にあって、絶えず莫大な費用と労力をかけて維持管理されている。何故それが可能なのか? 池袋が金と人とが集まる正真正銘の大都市であって、かつ高速道路のターミナルという交通上の要衝を有してもいるからだ。そして池袋の配下である埼玉、栃木、群馬には、いずれも海が無い。北関東の乾いた大地に閉じ込められた県民達に対して、その経済力と文化力をもって、本来ならば存在しない空間に人造の海を池袋は誇示する。(もちろんその存在意義は、もともと海がある品川や横浜とは違っている。)池袋のプライドは保たれる。池袋は、北を向いて高らかに言う。海が見たければ、私のところまで来たまえ。池袋線か東上線か、もしくは湘南新宿ラインに乗って。
水族館にも水族館の地政学がある。(いや、この場合は水政学と言うべきか?) 後になって以上のようなことを考えている時に、ふとマンボウの顔を思い出した。ここまで書いてきたことを要約すれば、マンボウが池袋を守っていると言えるのではないかと思った。あの茫洋とした無我と無意識そのものの静かで穏やかな佇まいはいかにも守護神に相応しい、少なくとも常に観客のウケを狙うせわしない自意識過剰の舞台俳優であるアシカよりは頼もしいと思ったけれど、そんなことはマンボウ当人にとってはどうでも良いことだろうと思い直した。
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アシカショーのステージは、普通の四角形のものから、観客が周囲を囲むひょうたん型のものに変わっている。 屋外の露天のアクリルケースの一隅に、ミナミコアリクイが普通に眠っているのを発見する。アルマジロやフェリック狐といった、似たような体格で大人しそうな動物達と同居していて、特別扱いはされていないようだ。たとえ高層ビルの谷間から見上げる僅かなものであっても、本物の空と雲とがあるのは動物としてやはり幸せだろう。
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