頼山陽の詩観

2013/03/01(金) 23:12:44 [【思索】詩作ノート]

「詩を録するに体を分かつべからず。一混してして写し去り、亦た以て年月を記せば、其の進むや否やを験する足れり」
(詩集の編纂においては詩体別よりも編年によることを主張した頼山陽の言葉)

頼山陽詩選 (岩波文庫)頼山陽詩選 (岩波文庫)
(2012/06/16)
頼 山陽

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【メモ】詩作者の行動圏

2012/12/30(日) 01:38:40 [【思索】詩作ノート]

 井上靖の詩集と、加藤楸邨の句集を、互いに無関係に読み進めて、ある共通点に気がついた。両者ともその壮年時代のある時点から、中国、内陸アジア、中央アジア諸国を旅した、実体験に基づく作品が散見されることだ。大陸の乾燥地域を題材にしたそれらの作品群は、日本在来のいわゆる伝統的・情緒的な感性とも、西洋輸入のモダンな表現とも異なる詩的表現を模索したもので、興味深い。
 そのような創作活動を可能にした背景にはもちろん、1970年代の、日中国交正常化により中国への入国が可能になったことがあるだろう。またそれに加えて、戦後の経済成長を経て国際社会における日本の経済的地位が上昇し、海外旅行自体が容易になったということでもあるだろう。改めて確認してみると、楸邨は1905年(明治38年)生まれ、井上は1907年(明治40年)生まれでほぼ同世代になる。世界の中の日本の地位の変化、外交関係の変化が、私的な衝動を創作活動の根拠とする詩人の作品の中にも、濃厚に反映されている。三好達治萩原朔太郎が想像の中で描いた駱駝の歩く沙漠の地を、彼らは実際に踏むことが出来たのだ。

加藤楸邨句集 (岩波文庫)加藤楸邨句集 (岩波文庫)
(2012/05/17)
加藤 楸邨

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(メモ)数学の証明のような詩?

2011/10/02(日) 02:19:27 [【思索】詩作ノート]

 詩とは、言葉の持つ様々な機能の中で、意味的(象徴的)な美しさを追求した表現の形態である。
 (書道とかタイポグラフィックアートは、文字としての言葉の視覚的な美しさを追求した表現の形態である。)
 言語としての美しさを持っているのは、いわゆる詩だけではない。エレガントに書かれた数学の証明にも美しさがある。それを詩である、あるいは詩的な美しさがあるということはできないだろうか?
 散文に常に引っ張られている自分としては、そこに突破口があるのではないか? 数学の証明のような散文詩。

(メモ)「こんこん」の表記について

2011/07/29(金) 01:02:17 [【思索】詩作ノート]

おたまじゃくしこんこんとして聚合れる暁森の水のべに立つ(斎藤茂吉)


以下、吉増剛造の評言

こんなところに飛んで行って佇んでみたい、……滾滾と漢字で綴らずに柔らかくひらながにしているところが茂吉の体温でしょうね。

詩をポケットに~愛する詩人たちへの旅 (NHKライブラリー)詩をポケットに~愛する詩人たちへの旅 (NHKライブラリー)
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吉増 剛造

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眼に古典紺紺とふる牡丹雪(富澤赤黄男)


以下、塚本邦雄の評言。

この作品の点睛は一にも二にも「紺紺」なる造字の妙にあろう。朗読吟唱すればこの効果は零に等しい。徹底的に目読の視覚的美観に賭けた潔さを私は嘉する。私の是とするところはまた逆に多くの人の非とするところであろう。滾滾、昏昏、渾渾、根根、いづれも平仮名書きに及ばぬ。紺紺は恩寵のように赤黄男の心に閃いた綺語であり、それもただ一度限り決して繰返しての使用は許されぬ。その一回性の潔さと虚しさゆえにこの紺は雪を銀泥と化し、古典は原典の墨色の濃淡まで髣髴させる。文字面を尊重するならその古典は蜻蛉日記、風雅集、玉葉集、花伝書、閑吟集、あるいはまた狭衣物語、金塊和歌集、男色大観、鶉衣あたりがふさわしかろう。

百句燦燦 現代俳諧頌 (講談社文芸文庫 つE 2)百句燦燦 現代俳諧頌 (講談社文芸文庫 つE 2)
(2008/06/10)
塚本 邦雄

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シンボリズムの限界

2009/05/05(火) 01:06:09 [【思索】詩作ノート]

例えば、蛇という爬虫類は、ある時は知恵のシンボルとして、ある文化では邪さの象徴として、またある時は大地の神の化身として、またある時は男性器を連想させるものとしてイメージされる。それは世界各地のそれぞれの神話や、旧約・新約両聖書に基づくキリスト教のシンボリズムの体系や、あるいは日本の民俗的な世界観や、フロイトやユングの精神分析の解釈体系といったそれぞれのお約束、「コード」に拠っている。しかしそれは、生き物としての蛇自身には、多くの場合全く何の関係もないことだろう。

言葉に拠ってある対象を指し示すのが、言語の一義的な、日常生活における普通の役割だろう。つまり「蛇」でも「ヘビ」でも「スネーク」でも何でも良いのだが、その言葉によってあの爬虫類を指示する。言葉のそのような機能によって、私達の通常行っている日常会話は支えられている。

その上に、言葉がその本来定められている指示対象とはまた別の対象を指し示すことがある。そのことを、最広義の、言語の象徴化機能とでも仮に名づけることが出来るだろうか? この時、言葉自体がひとつのメディアであり、シンボルされた対象物はひとつのメッセージであると捉えることが出来るだろうか? その機能が何重にも折り重なって構築された所に、人間の表現物である文化があり、芸術があり、文学があるのだろう。

その象徴化機能は、前述のように文化的に定められた約束事項がある程度共有されていることが前提となっている。約束事項が忘れ去られることによって、シンボルの機能は機能不全に陥っていくだろう。また、蛇という動物を見たことがないという人間ばかりが増えたとしても、それはそれでやはりシンボル化機能は弱体化していくだろう。

シンボリズムの不成立について

2009/04/22(水) 23:55:53 [【思索】詩作ノート]

表象文化論の用語だと「コード」、美術史とか芸術学の用語では「イコノロジー」というのだろうか、その呼び方はどうでも良いのだが、あるモノを提示することによって、そのモノの背後の意味を示す象徴的表現が成立するためには、メッセージの送り手と受け手との間に、そのモノの意味に対する共通了解・共通基盤が必要とされる。その基盤が共有される時、そのモノはモノ自体ではなく、記号あるいはメディアとして機能する。言語表現における隠喩や直喩といった技術も、またこれらの象徴的表現の範疇に含まれるだろう。
しかし、高度に複雑化、多様化した現代の文化において、そのようなキャッチボールが素朴に可能なのか? シンボリズムが不可能な時代を、現代の表現世界は迎えつつあるのではないか? だとしたら、これからの言語表現において必要とされるのは、隠喩でも直喩でも、豊穣な象徴の世界でもなく、むしろ身も蓋も無い直叙の技術ではないか。執拗かつ過剰に直叙を繰り返し、圧縮し、詰め込むことによって、新しい言語表現を開くような技法。最近になって思うのだが、私は無意識のうちに、そういったことを実はやりたかったのかも知れない。

【ノート】前衛という袋小路

2009/03/13(金) 05:24:57 [【思索】詩作ノート]

物(経験的世界の事象)には、実用的要素(機能的要素)とメディア的要素が混在する。メディア的要素の下位区分として、美的要素や歴史的要素といった要素を考えることが出来る。歴史的要素のさらに下位区分として、例えばブランド的要素(ウェブレン財的要素)を考えることが出来る。

経験的世界における機能的要素とメディア的要素の比率や関係性は、必ずしも一定ではない。受け手(受容者)の側の感性が変化によって、それもまた変動する。受容者の側の感性は、その時代の社会経済的状況や、技術環境による影響を受け、かなりの部分がそれに規定されている。

物から機能的要素を捨象し、歴史的要素も捨象して、ただ美的要素のみを表現しようという試みが、ある種の前衛芸術には観察される。しかしその多くはウェブレン財的要素によってその価値を再規定、再限定されてしまう。(トム・ウルフ『現代美術コテンパン』。)その試みは、成功しているとは言い難い。(ビジネスとしては成功しているのかも知れないが。)



では、経験的世界の事象(つまりは物)以外の認識対象においては、この機能的要素とメディア的要素の関係はどのようになっているのだろうか? 例えば、言語という記号体系においては?

言語の最大の役割は他者に意思を伝達すること、コミュニケーションのツールであることである。つまり言語というのは、「メディア的であることがその最大の機能的要素である。」

詩的言語というのは、言語に宿る様々な要素の中から、その美的要素の部分だけを最大化した言語であると一応は定義出来る。しかし、言語から実用的要素を捨象して、ただ美的要素のみを表現しようという試みは可能だろうか? 不可能であると私は考える。

詩的なものと史的なもの

むしろ機能性が求められる状況・文脈の中で、つまりはある限定の中で美的要素を追及する方が、結果として優れた詩的表現が生まれるのではないか? 

音声(聴覚的世界)の規則に基づいて、人工的に設定された機能性のルールが押韻であり、定律である。

【ノート】メディア的要素と実用的要素の遍在及び混在について

2009/03/06(金) 01:29:35 [【思索】詩作ノート]

ある物に宿る実用性とメディア性について、最もオーソドックスに整理すればおおむね以下のようになるだろう。

例えば、一枚の壁があるとする。その壁は通常、実用的な構造物である。つまり外界から他者の視線を遮蔽するためであったり、侵入者を防ぐためであったり、風や雨からある空間を守るためにそれは設けられている。しかし、壁画が描かれたり、何かしらの案内や注意書きや、落書が描かれれば、その壁はそれらのメッセージを伝達するメディア(媒介手段)としての性質を同時に帯びることになる。

しかしこの整理だけでは、余りにも単純に過ぎ、現代の社会における「汎メディア化」とでも称するべき現象を充分に説明し得ないように私には思われる。

例えば次のような状況を想定みよう。ある壁が立っている。その壁には特に壁画や文章が描かれているわけではない。作られた時のままのただの壁である。そこに一人の建築史家がやってきてこのようなことを言う。「このレンガの壁は、日本の近代建築史の一コマを如実に伝えている。それ自体がひとつの歴史書であり、重要なメッセージを私達に伝えているのだ。」あるいは一人の美術家が現れてこんな事を言う。「この白壁の何の装飾もない美しさは、それ自体がひとつのアートである。」

このような場合、壁自体がひとつのメディアとして解釈されうる。

つまり、この世界に存在する全ての物は、実用的性質とメディア的性質の両者をそのうちに兼ね備えている。その対象物を実用品として解釈するか、ある種のメディアとして解釈するかは、実は観察者の側の感性の在り方、認識の在り方によって規定されている。かつて荒井由美は歌った。「目に映る全てのものはメッセージ」と。

しかしながら、そのような、受け手の側の感覚・認識の変容は、一体何によって生じうるのであろうか? 私達を取り巻く近代的・現代的なテクノロジーによって起こるものだろうか? あるいは、近代以降の社会・経済システムが、私達の内部にそのような変化(進化?適応?)を強いるのだろうか?

ウォルフガング・シヴェルヴシュ『鉄道旅行の歴史』を参照。この問題について考えをより進めるためには、ベンヤミンマクルーハンや、その他諸々のメディア論の思想家の考察を読んでいく必要があるだろう。)



そのような「受容者の認識の変容による世界のメディア化」を、あたかも外部化し具体化・現実化したようなテクノロジーが、グーグルマップやグーグルストリートビューであり、あるいは極小マイクロチップによるユビキタス社会であり、『電脳コイル』で描かれたよう拡張現実技術である。

(『電脳コイル』と拡張現実技術について以前書いた文章)

これらの技術には、もちろん現在指摘・批判されているようなプライバシー侵害の問題もあるのだと思うけど、それにもまして深刻なのは、人間の内面を強制的にチェンジさせる、その環境的な暴力性にあるのではないかと私は考える。騒音問題や過剰照明問題の、より複雑化した現代的な形態とでも言おうか。人々がそれらの技術にしばしば警戒感や嫌悪を抱く理由のひとつはそこにあると考えられる。



今後の課題。

1.それらの「汎在化するメディア社会」は、汎神論、日本的なアニミズム世界との類似性が連想される。しかしこの二つを、そんなに短絡的に結びつけて良いものなのだろうか? (それなりにきちんとした論理的な手続きであったり、迂回であったりが必要とされるのではないか?)

2.「メディア化」の下位区分として、例えば「審美化」や「メッセージ化」といった概念が考えられると思うが、それらの相違に関する検討。

3.言語に宿る実用性とメディア性についての検討。言語というのは、それそのものがメディアであるのだが、詩的言語とそうではない言語の関係について考える際に、以上で考えたような知見が応用できないか?

4.現代社会で現実におこっているそのような現象を、いかにして言語で描写し、表現するか?
(実践的課題)。

【ノート】テレ東のニュースで『電脳コイル』を見る

2009/02/28(土) 01:54:36 [【思索】詩作ノート]

先週、NHKの深夜再放送枠で
BSアニメ夜話電脳コイルの回が放送されたと思ったら、
今週になって、テレ東の夜のニュース「WBS」で
電脳コイルが突然紹介された。
携帯電話会社やベンチャー企業が、
それぞれに進めている拡張現実技術の実証実験を
紹介するコーナーの中で、
そのわかりやすい例として電脳メガネ技術が紹介される。
電脳コイル星雲賞日本SF大賞受賞作品だが、
SF系の作品の持つある種の未来予見力や未来構想力は、
21世紀の現代においてもある程度有効であるのかも知れない。)

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今となっては何だか懐かしさすら感じる。
まあそれは良いとしても、
ニュース番組の中で紹介されたこれらの
「現実の拡張現実技術」は、
パスモ連動型にしても、
iフォンのような携帯型電子情報プラットフォーム連動型にしても、
結局はパン屋の宣伝とか何とか、
要するにビジネスのための宣伝・広告のツールとしてしか
構想されていないのが、どうにもつまらない。
まあ、まともな大人が第一に考えるのは
やはり経済のことが中心になるのは当然なのだが。

それならば、ビジネス以外の用途として、
例えばどんな使用方法が考えられるか。
どうにも凡庸なようだが、
例えば古地図や郷土史に関する情報にリンクするとか、
神社仏閣のような施設の縁起・由来を提供するとかいう事を
まず思いついた。
神社仏閣には、その建立の由来がしばしば石碑に
刻まれているが、大抵の場合は非常に読みにくいものとなっている。
それらを読めるようにしたら。
一部の民俗学・郷土史マニアは大喜びするだろう。
(そう言えば、『電脳コイル』でも
神社は物語上重要な意味を持つ空間だった。)

しかし、全ての空間がそのように、
言わば顕示的な意味でメディア化して
顕示的な情報を発信するようになった社会というのは、
何だかとても暑苦しくて、煩わしくて、グロテスクな気がする。
(まさしくマーシャル・マクルーハンが幻視した
メディア化社会そのものだ。)

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現在の私達の多くは、
グーグルアースグーグルストリートビューに対しても、
まだまだ違和感や不信感を感じる感性を保持している。
我々の生活空間に導入するにしても、
出来れば大黒市のような所で、
入念に実験をして問題点を洗い出してからにして欲しい。

【ノート】俳句の「反完結性」と別位相による「補完」

2009/01/21(水) 06:08:08 [【思索】詩作ノート]

先に、私は、子規は最も短い俳句を選んだとのべた。しかし、俳句はたんに短いのではない。それは、和歌において、下の句の七七によって、完了し内面化されてしまうものを、中途で切断してしまうものであり、そうであるがゆえに、切断=未完成を含んでいる。したがって、短さが短さに終わらない。

俳句における「写生」性は、そのことと関係している。つまり、俳句は、物がリアルに描かれているからではなく、内面化される手前での中断をはらむがゆえに、即物的に見えるのだ。


和歌が上下の句の反照関係によって「時間」を持ち、したがって物語を内在させているとすれば、俳句はそれを切断する。
(いずれも柄谷行人「詩と死――子規から漱石へ」より)



柄谷行人は俳句の詩としての性質を以上のように指摘したが、その俳句の「切断性」あるいは「反完結性」を最も純化された形で現したのが、自由律俳句ではないかと私は考える。定型も季語も放棄し、路傍に無造作に投げ出され吐き出されただけのように見える短いフレーズの数々。
しかしその徹底した「反完結性」ゆえに、自由律俳句はしばしばそれを読む読者にとって理解しづらいものとなり、短詩表現、俳句表現のスタンダードには全くなり得なかった。(詩表現に「スタンダード」というものがそもそも存在しうるのかという指摘は別にして。)

また、そのような表現上の難点を補完するためか、山頭火あたりは詞言葉を多用することを好んだとされる。



とりのなん子『とりぱん』1より引用する。

影が来る
大きな生き物が通り過ぎていく



作者である女性が路上の虫を跨ごうとして、自身の影が虫の上に差す様子と、はるか上空を流れる雲の影が自分自身を包む様子をシンクロさせて描かれた1ページ、5コマのマンガである。このページに配されたのは、このフレーズだけであるのだが……。
これって、自由律俳句じゃないか?

このマンガが無く、このフレーズ単体を示されたなら、上記に説明したような内容までは人は感知し得ないであろう。マンガであることによって、これだけの深みや面白味のある感覚を読者に伝えることが出来る。つまり自由律俳句的な「切断性」「反完結性」が、マンガという別位相によって「補完」されていることによって表現がより深まっているのである。
マンガ、もっと広く言えば絵画、視覚表現という手段がいかに多くの事を伝えうるかという好例である。あるいは、近世の文化人や、明治期の一部の文学者達が好んで描いた俳画や文人画の系譜に連なる表現形態、その現代的な形式であるのかも知れない。

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【ノート】詩的なものと史的なもの

2008/12/30(火) 05:15:23 [【思索】詩作ノート]

日常言語と詩的言語の境界についてさらに考える。

寺田寅彦に「丸善と三越」という高名な随筆がある。その本文の知的な端正さもむろん大いに味わうべきだが、それ以前に、この「丸善と三越」というタイトル自体が一篇の短詩ではないかと私は以前より感じて来た。「丸善」という固有名詞からは、戦前の日本社会のモダニズムを支えた教養主義の香りが漂い、「三越」からは同様に近代日本の大都市に成立した消費社会の華やかさが伝わってくる。そしてこの両者を組み合わせて「丸善と三越」としたところに、明治以来の日本社会の近代化プロジェクトの、もっとも明るく美しい側面の、その正のイメージが端的に表現されていると思うのだ。

もちろん以上のような解釈は、「丸善」とか「三越」とかいう固有名詞に対して、ある程度の歴史的知識があることを前提としたものである。詩というのは、個人の内面を言葉によって表現するものだと言うのが、多くの人々の共通認識であろうが、その個人の内面というのも畢竟歴史的に形成された存在であり、詩的な世界に史的な文脈を注入することは、表現の上では決してマイナスにはならない。それは表現においてより豊かな多様性をもたらすものになるだろう。

「丸善と三越」は当然ながら「ブックオフとファミリーマート」とは伝えうるイメージが全く違う。「ブックオフとファミリーマート」が詩にならないというのではない。「ブックオフとファミリーマート」が読み手に伝えるものはおそらく「平成期、あるいは21世紀の日本社会における均質化・同質化されつくした消費空間・都市空間」といったようなものになるだろう。そこにもまた、ある種の詩的なものを見出す事が可能である。

世界のあらゆる存在に、詩的なものの種子は内在されている。極端に言えば、この世界に詩的でないものなどは存在しないのではないか? ただそれをどのように引き出して、言葉という表現手段(メディア)を用いて作品世界を作っていくか、その作品世界がどこまで読者に伝わるイメージを構築しうるかというのは、やはり創作者の感性と技術とにかかっているのだろう。

【ノート】自由律俳句上に作用する「定律」の重力

2008/12/28(日) 02:08:45 [【思索】詩作ノート]

自由律俳句運動の幻視した、無造作に吐き捨てた言葉がそのまま一遍の短詩になるような境地は、詩を創作するものにとって一つの理想的な在り方であろう。しかし現実にはそれは難しい。その余りにも断片的な言葉は、往々にして単体で詩の世界を表現、構成することが難しく、しばしば周辺情報、コンテクストに依存することになるからである。(山頭火が詞言葉を好んで用いたことを想起されたい。)この問題は、また後日改めて考える必要がある。

このノートではそれとはまた別の問題についてメモを取る。自由律俳句の中にすら、おそらくはその作り手すら無意識のうちに、しばしば定律の断片が観察される。以下、それを列記してみる。


1.五七体。俳句で言えば上・中の部分だけを切り取った形になる。

鉄鉢の中にも霰(山頭火)

踏みわける萩よすすきよ(山頭火)

笠をぬぎしみじみとぬれ(山頭火)

生卵こつくり飲んだ(放哉)

一日の終りの雀(放哉)




2.七五体。俳句で言えば中・下の部分だけを切り取った形になる

椿ひらいて墓がある(山頭火)

朝は涼しい茗荷の子(山頭火)

木の葉ふるふる野糞する(山頭火)

一人の道が暮れて来た(放哉)

火の無い火鉢に手をかざし(放哉)



3.七七体。短歌でいう下の句に当たる。

いちりん挿しの椿いちりん(山頭火)

すずめをどるやたんぽぽちるや(山頭火)

こころすなほに御飯がふいた(山頭火)

蟇あそこにも一つ動けり(放哉)

落書がなくてお寺の白壁(放哉)

茄子もいできてぎしぎし洗う(放哉)




このように並べてみると、いったい何が俳句で何が詩なのか、わからなくなってしまう。いや、これらの作品が詩ではないと言うのではなく、詩というのはむしろどこにでも遍在しているもので、それ故に詩であるものと詩でないものを分けて考えるのは困難なのではないかということである。さらに言えば、日常語の中に、五七・七五・七七に当てはまるものがあれば、それは俳句や短歌になりうる、少なくともその萌芽にはなりうるということではないか?

しかし、そもそも俳句や短歌の字数規定自体が、根源的には無根拠なものなのではあるが。

【ノート】文字の文化と詩的表現

2008/11/23(日) 03:25:45 [【思索】詩作ノート]

詩にとって文字の存在は必ずしも必要条件ではない。
無文字社会でも、口誦によって優れた詩を伝えてきた民族は
地球上に幾らでもある。
しかし、俳句や短歌といった形式においては、
文字の存在は絶対必要条件のように思われる。
何故なのだろう?

声の文化と文字の文化声の文化と文字の文化
(1991/10)
ウォルター・J. オング林 正寛

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【ノート】日本語の起伏と短詩形について

2008/11/21(金) 02:04:37 [【思索】詩作ノート]

愚考するに、日本語の魅力というのは、名詞や形容詞などの自律詞と、その間に挟まれる助詞や用言の活用語尾とが交互におりなす起伏のリズムにある。これは聴覚的な要素であると同時に、また視覚的なものでもある。

この時、もちろん漢語やカタカナ語のような外来語も適宜日本語の魅力の中に組み込むことが出来る。漢語の持つ硬質さやカタカナ語の持つ異質性も自在に取り込むことの出来る柔軟な構造が日本語にはある。

また、助詞を省略することによって、ダイナミックな語感を演出するという技法も、この魅力の一部である。

日本語のその魅力を生かしうる形式としては、やはりある程度の長さがある短歌が作りやすい。俳句は非常に難しい表現ジャンルである。少し長めの固有名詞がひとつ入っただけで、その選択肢が極端に狭まってしまう。短歌が山並の文芸だとしたら、俳句は美しく切り取られたひとつの斜面の魅力を追及する文芸だろう。これはどちらが優れているかという優劣の問題ではなく、あくまでも両者のその性格の違いである。

【ノート】コンポジションの表現思想に関する覚書

2008/11/18(火) 03:39:53 [【思索】詩作ノート]

単体としての短歌や俳句の作品が並んだ、いわゆる「歌集」や「句集」といった形式の書籍は、実は案外に読みにくい所があるように感じる。(その個別の作品が持つ、独立した強度を受け取る感性が、私に欠落しているだけなのかも知れないが。)むしろ『奥の細道』のように、その作品が作成される周囲の状況に関する情報が織り込まれていた方が、読者が受け取るイメージの世界もより豊饒に、広がりを持つものになりはしないか?

作品がテクストだとしたら、それらの周辺情報を伝える文章はコンテクストに当たるだろう。そのコンテクストの部分をも含めた全体を、ひとつの大きな「作品」として提示するような創作の形式や、創作の理論は果たして可能か? 壁画や建築物がどこに飾られるか、どこに建てられるかも含めてひとつの作品であり、表現であるのと同じように。

そのような試みのひとつとして、コンポジションという作品の形式を夢想している。日本語に訳せば「構築詩」とでも呼ぶべきだろうか? 散文・短歌・俳句や、それに満たない自由律的なフレーズを、ある思想や美学・美意識に基づいて配置することで、その全体をひとつのパッケージングされた作品として提示する方法。

連歌や連句と共通の性格も持っているが、また違うものになるだろう。(要検討。)

そのコンポジションを構築するための記号としての「※」。これは句点「。」や読点「、」と同種のものだが、それより大きな纏まりを示すもので「大句点」とでも呼称するべきかも知れない。



その記号も含めて、どのテキストをどこで区切って、どのように布置を決定するかが、コンポジションにおいては非常に重要になるだろう。改行のタイミングも、表現の成否を決定付けるひとつの大きな要素である。例:石川啄木参照。啄木が自らの作品を、三行短歌ではなく普通の短歌として記して発表したら、その評価はかなり違ったものとなっていた可能性がある。

漱石「木屑録」雑感

2008/11/13(木) 02:38:45 [【思索】詩作ノート]

「木屑録」は一高生時代の漱石が、療養中の子規に読ませるために書いた紀行文。夏休みに千葉を旅行した時の見聞が漢詩とともに綴られている。全文白文。
高島俊男による軽妙な現代語訳と解説がある(高島『漱石の夏休み』ちくま文庫)。以下それに拠って気になった部分を引用し、雑感を記す。

……ああ、天下の好景奇観は多し。いたく旅遊を好む者といへどもことごとく見てことごとくしるすことはあたわず。…(中略)…たまたま旅人これらの地にきたるも、その作るところの文はつたふるにあたひせず。よしやつたふるに足るものあるも、ともすれば流浪のはて、流謫の身にありて成るものにして、その筆致たる悲傷また怨嗟、山水に託してその胸中の思ひを発するのみ。これは作者の幸ひなれど山水にとりては迷惑のしだいなり。 しからば山水にとりてありがたき旅客とはいかなる人ぞや。心にうれひなく、体にやまひなく、陶然としてたのしみ、悠然として帰るをも忘れ、しかもその文は人にすぐれ、水光山色のために気をはく者ならではかなはず、なかなかできぬ相談なり。
〈十三〉


景観の描写にいたずらに個人の内面を投影することを戒めている。鋭い。さすがは漱石。後に柄谷行人が「風景の発見」を書くよりも遥かに早い。

……岩礁上に鳥あり、赤きかしら青き足、その名を知らず。波きたればはばたいて岩をはなれ、低く飛びめぐり、波しりぞけばまた岩にもどる。
〈十四〉


この波を避ける岩礁の鳥の描写は、子規が絶賛した部分らしい。

又後節を叙するの処、精にして雅、航海中数々目撃するのこと、而して先人未だ道破せず、而して其文、支那の古文を読むが如し。
子規『筆まかせ』





この一高生時代の漱石と子規の交流について、伊藤整の『日本文壇史』の記述を引いてみる。

……この時正岡の詩文に、競争心をかき立てられた夏目は、この年の夏の休暇に房州へ旅をした時、その印象を漢文と漢詩に書き、「木屑録」と題してまとめ、それを正岡に示した。正岡は夏目が英語に熟達しているとは知っていたが、漢文や漢詩をこのように自在に駆使することを初めて知って驚いた。正岡はその文章に跋を書き、英書を読むものは漢籍が出来ず、漢籍に通じたものは英語が出来ない。兄が英語にすぐれていることはかねて知っていたが、漢文漢詩にこのような才を持っていることには驚いた。兄の如きは千万人中の一人だ、と書いた。
伊藤『日本文壇史』第二巻第四章5


一通りのことは書いてある。『日本文壇史』は非常に浩瀚な書物だが、辞書的な利用の仕方をすると使いやすいと思う。索引も出ている。

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【ノート】多段階機構の快楽

2008/09/21(日) 03:45:10 [【思索】詩作ノート]

人間がある事象を面白いと感じるのは、
ある物事を操作した時に、
その物事と直接関連のない別の場所に
その結果が現れるという場合が多いようだ。

「ガラスのコップを叩きつけて割る」とか、
「蕪の葉っぱを引っ張って地面から引っこ抜く」というのも、
もちろん人間が面白いと感じる現象のひとつではある。
しかしそれらは、ある動作がダイレクトに結果に直結するという点で、
人間の知性においては、いささか単純に過ぎる、
低次元の事柄に分類されるのではないか?

「Aを操作してAがA´になる」というのではなく、
「Aを操作したら離れた所にあったBがB´になった」という事例の方が、
人間の感じる面白さとしては、
より高次元で、バリエーションも豊かなものになる可能性がある。

「レバーを引いたら鉄道が動き出した」
「ボタンを押したらミサイルが発射された」という事例の方が、
人間としては面白みをより強く感じる。

これは「ピタゴラスイッチ」的な快楽であり、
またテレビゲーム一般の快楽である。
テレビゲームの快楽の根本はどこにあるかと愚考するに、
おそらく、触覚を通した物理的な操作が
コントローラーを経て電子的な情報として処理され、
その結果が視覚(数値・文字情報を含む)や
聴覚に属する情報としてアウトプットされる
一連の過程にあるのである。

(余談だが、テレビゲームの中でも、
『ゼルダの伝説』シリーズが最も面白い物のひとつとして
評価される理由も、ここにある気がする。
ゼルダシリーズは、この複雑な機構の持つ快楽を
ゲーム世界内において最も巧妙に取り込んだ作品である。
(銅像の目を射抜くと隠し扉が開く、など)
また「神々のトライフォース」以降の作品は
パラレルワールドを用いて、
「Aを操作したら離れた所にあったBがB´になった」を
非常に上手くゲーム内に取り込んでいる。)

ではなぜ、人間は
「Aを操作したら離れた所にあったBがB´になった」事例に、
魅力を感じるのか?
実は、現時点の私には未だ良くわかっていない。
(認知科学や、理系寄りの学問では明らかになっているのだろうか?
この辺の本ももっと読んで行く必要がある。)

現時点においては、詩文を創作する時に、
この事を多少なりとも意識しておきたい。
一見、相互に関連なく独立している事象を作品の中に導入することで、
その作品世界に面白さや深みを与えることが出来るだろう。
またもしくは、私が生産するテキストやエクリチュール(!)自体が、
AとBの二つの事象を接続する
多段階的な処理機構として機能するような作品を書くべきなのかも知れない。

【ノート】自意識の焦点について

2008/08/26(火) 02:44:03 [【思索】詩作ノート]


人がその感覚器を通じて情報を獲得し、五感に拠り外界の事象認識する時、通常認識する側の人を主体、される側の事象客体と分類する。この時、主体客体の関係が1対1ならば、変わった事や珍しい事は特にない。ただ単に主体客体が一つずつ在るというだけである。

では、客体が2つ以上となった場合はどうだろうか? 2つ以上の客体認識する時には、当然そのために必要とされる情報の流れも2つ以上になる。「踏切の音を聴きながら蝶が舞うのを見る」とか、「朝の涼しさを感じながらヘリコプターのプロペラ音を聞く」といった場合がこれに当たる。

このように「2つ以上の情報の流れ」が存在する時、その情報の流れの交差点・焦点として、主体である人の認識能力は強化され、強調される。つまり感覚器による五感認識を束ねる、ひとつ上のレベルの認識能力が意識化される。(その「諸々の感覚の焦点としてのメタ感覚」を呼ぶときに「悟性」という言葉を哲学用語を用いていいのかどうかは今の私にはわからない。何だか安直に過ぎる気もする。)

普段は意識されないものを発見し、その存在を示すのが言語表現としての詩の役割のひとつである。諸々の感覚の焦点としてのメタ感覚を覚醒させることも、この役割に属する。だから詩を書くときには、4センテンスなら大抵3センテンス目に客体の転調が行われ、3センテンス詩なら最後に1、2センテンス目とは異なった対象に注意を向けて、いわばオチを作る。

【ノート】抒情の切断とプロレタリア詩の問題

2008/08/01(金) 00:38:51 [【思索】詩作ノート]

また柄谷の記述に従って整理を行う。

子規:和歌の俳句化(和歌の革新=短歌)を試みる
ロマン派詩人:和歌を引き延ばした新体詩(和歌の延長)を行う。⇒後に自然主義小説へ

ここで日本の新体詩の歴史において、鬼子ともいうべき、プロレタリア詩についてメモしておきたい。
以下、中野重治「歌」を引用する。

おまえは歌うな
おまえは赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな
風のささやきや女の髪の匂いを歌うな
すべてのひよわなもの
すべてのうそうそとしたもの
すべてのものうげなものをはじき去れ
全ての風情を擯斥せよ
もっぱら正直のところを
腹の足しになるところを
胸さきを突きあげてくるぎりぎりのところを歌え
たたかれることによって弾ねかえる歌を
恥辱の底から勇気を汲みくる歌を
それらの歌うたを
咽喉をふくらまして厳しい韻律に歌いあげよ
それらの歌うたを
行く行く人々の胸郭にたたきこめ



ここに表明されているのは、明確に抒情の切断であり、センチメンタリズムを破棄してより高次の目標のために自らの言語表現を捧げようと言う意志である。(「高次の目標」のために個人的な感傷を破棄するというのは、何だか共産主義じみているが、実際に中野は「アカ」なんだからしょうがない。この中野的なポジショニングを極限まで純化して突き詰めると、ポル・ポト=サロット・サルのクメール・ルージュに至る。赤ままの花を歌うことを禁止して、赤い旗の歌を歌い続けた結果、赤い血だけがただ無駄に流されたというべきか。)

内容的にはそうではあるが、しかし、詩において抒情を切断するということが、果たして本当に可能であるのか? 抒情を切断するというこの種の「決意表明」もまた、解釈の如何によっては、ただちに抒情の一種として再回収されてしまうのではないか?

抒情を切断することは出来ない。抒情とある一定の距離を置こうとするならば、ただ忘却するか、努めて敬遠するか以外に処理の方法がないのでは?

またそもそも、詩文の表現において、何故ことさらに抒情を排斥する必要があるのか?
(この問題については次の機会に改めて整理したい。)

【ノート】自由律俳句上の自意識表現

2008/07/31(木) 00:54:37 [【思索】詩作ノート]

今、柄谷行人の記述(「詩と死――子規から漱石へ」『漱石論集成』平凡社ライブラリー所収)に従って、和歌俳句の関係を整理すると、以下のようになる。

和歌:下の句の七七によって、完了し内面化された表現
俳句:切断=未完成を含んでいるが故に、短さが短さに終わらない。内面化される手前での中断を含むが故に、即物的に見える。

子規和歌改革は、和歌俳句にしてしまうものだと柄谷は指摘する。

そうならば、そのような子規和歌改革と、表現において正反対の方向性を模索したのが、山頭火放哉と言った自由律俳句の俳人(詩人)達であると言える。通常の俳句で切断され、子規が近代短歌の七七の部分から排除しようとした内面化と自意識の部分が、これらの俳人の自由律俳句においては、前面に押し出されている。要するに自由律俳句は、全体が自意識と内面化の表現なのだ。


山頭火

また見ることもない山が遠ざかる

どうしようもないわたしが歩いてゐる

鳴いて鴉の、飛んで鴉の、落ち着くところがない



放哉

一日物云わず蝶の影さす

なぎさふりかえる我が足跡も無く

底が抜けた勺で水を飲もうとした



放哉に関してはともかく、山頭火については確実にそうだと断言出来る。山頭火自意識の強さは、「一人一室一灯」に執着し続ける行乞中の日記の記述から見ても明らかだろう。山頭火は自己を捨て去るためではなく、孤独な自己を再確認するために遙かなる行乞の旅に出たのだと言える。山頭火が詠んだのは、行乞の旅においてその目に映じた風景ではなく、ひたすら自分自身の孤独、もしくは孤独な自分自身そのものなのだ。

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【ノート】パスティーシュ詩の概念

2008/07/17(木) 02:06:21 [【思索】詩作ノート]

パスティーシュ詩とは何か。
それについて説明する前に、
やはり李白「静夜詩」から。

牀前看月光
疑是地上霜
挙頭望山月
低頭思故郷



以下、拙訳。

寝床の前に月光が差し込む
まるで地上の霜のようである
頭を挙げると山月が望め
頭を下げると故郷のことが思い出される


これを試みに「パスティーシュ詩」にすると以下のようになる。

寝床の前に月光が差し込む。
とぼけるな!月が真円を描く夜こそ
サイヤ人がその本領を発揮する時ではないか。
戦闘力たったの5(笑)カカロット(笑)ブルーツ波(笑)。
「月にかわっておしおきよ!」
ということですね。わかりますわかります。



現代におけるパスティーシュもしくはパロディの難しさというのは、
その元ネタをどこから引いて来るのか、
元ネタとなるべきテクストがどこまで共有されているのか、
正確な予測が難しいという点にある。
これは拠るべき古典を喪失した
「近代日本における人文的教養の包括的地盤沈下」とでも
言い表せる状況かも知れない。
この作例では、
世界で最も売れたマンガ作品と、
90年代の日本において最もポピュラーだったアニメから
それぞれセリフを借用しているが、
それが理解されるかどうかは、
確実ではない。

そういった、インフラ的もしくは下部構造的な難しさがあるのだが、
だがパスティーシュという技法自体には、
大いに可能性や魅力があると私は考える。
知性、知力、知識、諧謔の精神といったものが
少なからず必要とされる手法であり、
現時点の私にそれを作成するだけの
力量があるのかどうかという不安はあるのだが。
(特に私は、自分自身の笑いのセンス、
ギャグセンスの無さを自覚している。)

また、過剰に凝り過ぎた趣向の作品を作ると、
アバンギャルドなものになり、
高橋源一郎の小説のように、
特定のマニアックな読者以外には
理解不能なものになりかねない。

しかし上手く的中すると、作者と読者の間に
緊密な相互理解が生まれ、知的な一体感を
感じることが出来るだろう。
そのパロディを理解するということは、
とりも直さず両者が共通の知的基盤に属するという事実の
経験的なレベルでの確認作業に他ならないからである。

それでも、少なくとも、ただ自分の感情を爆発させるだけの、
シャウト系」の言語表現よりは、
幾分なりとも高級なものが生まれる可能性があるのではないか。

シャウト系」の言語表現はファシズムに近い。
それはヒットラーユーゲントが最も好んだ手法であり、
若者がキャンプファイヤーを囲んで、
夜を徹して互いの悩みを打ち明け合って
一体感を共有するというイベントは、
ナチスドイツ時代に定式化された。

【ノート】「理系詩」の基礎概念

2008/07/14(月) 03:51:57 [【思索】詩作ノート]

詩というのは、作者自身の心情を吐露するものだ、
シャウトするものだという思い込みが、
現代の人々においてはまだまだ根強いのではないか。
別にその事、そのような詩の在り方を
私はことさらに否定するものではないが、
しかしまた別のアングルからのアプローチがあっても
良いのではないかとも考える。
言葉を道具として多様な表現を実践することが、
広義の詩の定義だと思うからである。

例えば、李白静夜思という五言絶句がある。
四行詩の世界的な傑作であり、
日本においても最も良く知られた作品である。

牀前看月光
疑是地上霜
挙頭望山月
低頭思故郷


稚拙ではあるが、
自分なりに訳してみると以下のような感じになる。

寝床の前に月光が差し込む
まるで地上の霜のようである
頭を挙げると山月が望め
頭を下げると故郷のことが思い出される



理系詩」とは一体何のことか。
この四行詩を本歌取りして一作作ってみたい。

寝床の前に月光が差し込む。
地球生命が誕生する時代に、
降り注ぐ隕石を盾となって浴びたのが月だと言う。
衛星とはその本来の字義通り「衛る星」のことであり、
凸凹のクレーターはその闘いを今に伝える遺跡なのだ。


作例としては余り上手くは出来なかったが、
まあこのような感じである。
つまり「理系詩」とは大雑把に言って、
理屈や歴史や自然科学の知識によって、
全体の構成が導かれる詩とでも思って頂きたい。

何故そのような概念を唐突に言い出すのかというと、
詩というのはもっとポジティブで明るいもの、
世界に対する新しい発見や瑞々しい驚きを、
そのまま素直に表現するものであって良いのではないかと
考えるからだ。
自分の内面をことさらに深く掘り下げて、
半ば強制的に「告白」させられることだけが詩ではないと
愚考するからだ。
それは近代文学(「日本的近代文学」か?)によって
強制させられたある種の自白であり、
強制された自白ほど信用できないものはない。

森は真理に満ちている。
世界は驚きに満ちている。
その驚きを理論によって体系化するのがサイエンスであり、
感性によって表現するのがポエジーであるとするならば、
科学に感性があっても良いし、
詩に理論があっても良いのではないかと思う。

【ノート】三行詩の構成について

2008/07/09(水) 01:41:53 [【思索】詩作ノート]

起承転結の構成がはっきりしている四行詩の場合と違って、
三行詩は全体がより緊密な作品、
悪く言えば寸詰まりの感じになることが多いように思う。
物事を3つの部分に分けて構成する場合は
「序論・本論・結論」とか「序破急」(能の用語らしい)という風に
作成するらしいのだけど、私が作って来た作品は
これには余り当てはまらない。

私の作品の構成を振り返って見てみると、
「平平急」「坦々急」と言った感じになるのではないか。
(そんな用語はないので、今勝手に作ったのだが)
つまり、前の二文で淡々と情景状況を描写し、
ワンテンポ置いて最後の一行に、
自分の主観自意識を投影した、
短い、いささかセンチメンタルに過ぎるセンテンスを持ってくる。
前の二文には、特に上下関係や重要度の違いはない。
最後の一行は、起承転結の「転結」が一体となったものとも
言えないことはないが、やはりそれとも違う気がする。

また前の二文は、均質に流れる時間を表現し、
最後の一文は、瞬間的な美を表現している
(つもりである)。

何故かはわからないが、このパターンの作品は、
私にとっては創るのが楽なのである。
精神的に苦しくて、余り詩を作る余裕がないような時でも
エネルギーを使わずに作成することが出来る。
だがワンパターンに陥りやすいことも確かである。
この構成をある種の定型として、定着させる所まで
洗練させる事が出来たらと思うのだが、
今の所なかなか果たせないでいる。

【ノート】四行詩の構成について

2008/07/07(月) 00:27:54 [【思索】詩作ノート]

四行詩のそれぞれの行は、
基本的には起・承・転・結に対応しているが、
その表現方法は一様ではない。

漢詩絶句では、
一行目から四行目までが全て同じ長さで構成されている。
一行目の起と二行目の承、
三行目の転と四行目の結が、
それぞれ対句的な表現となって、
視覚上でも幾何学的な美しさを見せている。

ペルシア四行詩ルバーイイもまた
独自の音韻体系で構成されているらしいが、
ペルシア語は全くかじったことがないので
オマル・ハイヤーム『ルバイヤート小川亮作訳の解説による
情報しかないのが残念である。

いしいひさいち以降の4コママンガが必ずしも
起・承・転・結の構成に従っていないように、
四行詩の構成も、様々なバリエーションが在りうるのだと思う。
色々と考えてみたい。

【ノート】シミリでもメタファーでも無く

2008/07/01(火) 00:25:26 [【思索】詩作ノート]

シミリ(直喩)やメタファー(暗喩)は
言語表現をより豊穣で多彩にする技法の一つだと、
一般には思われているだろう。
しかし、それを敢えて封印する、可能な限り回避するという
表現思想はあり得ないものか?

シミリも用いず、メタファーも用いず、
より直接的に感覚に訴える言語表現である
擬声語・擬態語なども用いない。

では何をもって表現を行うかというと、
抽象的で無機質で冷淡な、
官僚的なイメージを与える、
漢語のボキャブラリーによって、
敢えて感覚や感情という、
ソフトでウェットな諸要素の伝達を行うのである。

そのような手段を選択する理由としては、
禁欲的で抑制された抽象的表現によって、
かえって新しい効果がもたらされはしないかというのが一つ。
膠着語である日本語の中において、
くっきりと閉ざされた漢語の語彙は、
音楽的・聴覚的なメリハリをつける上で、
やはり重要であると考えるのが一つ。
それに、やはり適切な頻度で漢字が混ざった文章の方が、
視覚的に見ても美しく、かつ読みやすいと感じられるのが一つ。

大和ごころと漢ごころの文化論的相違にまで、
まだ考えが至らないのは、現時点での私の勉強不足であり、
残念なことであるが。

【ノート】「する」ことと「である」こと

2008/06/19(木) 04:05:43 [【思索】詩作ノート]

文末の述語
「~なので行ってみた」「~なので歩いてみた」と言う風に
具体的な行動を示した動詞で結ぶと、
主体としての自己の存在を強く押し出す、
主観的能動的な叙述になる。
逆に
「~である」「~であった」というように
ただ単に存在を示す動詞で結ぶと、
状況を客観的に描写している叙述になる。

この両者を、適宜使い分けるのが
上手い散文詩人であると思うが、
その使い分けをどのような思想に基づいて行うか、
これは熟考しなければならない。
しかし私としては、
自己の主観性は可能な限り抹消した上で、
普遍性のある文体を目指したいと考えているので、
心情的には後者を「積極的に」奨励する方向に傾いている。
本来、詩人と言うのは自らの主観と美意識に拠って立つものなので、
むしろ前者に傾きがちだと思うのだが。

かの丸山真男の真逆である。

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