アトレヴィ大塚のスタバの窓際

2016/08/24(水) 01:05:32 [エッセイ]

 日本の都市において、駅前の空間はバスターミナルやタクシープールとなっているのが通常だが、大塚駅の南側はそうではない。東池袋の台地側から下ってくる都電荒川線の軌道が最優先され、バスの発着場は幹線道路を隔てた北側に追いやられている。
 その、大塚駅の、山の手線の内側には、数年前に駅ビルが出来た。アトレヴィ大塚である。隣の巣鴨駅に既にあったものと、大同小異の商業ビルだ。個々の街の地域性や特性を剥奪し、風景も消費行動も均質化、パターン化していくその企業戦略は、ソフトな全体主義の一種ではないかと、建設途中のそのビルを見て感じていた。完成した今となっては、これはジャンクスペース(現代建築家のレム・コールハースがその著作において提出した概念)の具現化ではないかと考えている。
 ユニクロがあり、ロフトがあり、ドラッグストアがある。スーパーは勿論、成城石井。上層階には和洋中の各種飲食店が入っているが、二階にはスタバが入っている。
 二〇一〇年代の日本の主要都市においては、スタバなど面白くも何ともない。
 そのスタバの、窓際の角の座席から、駅前を眺める。
 早稲田側から来た都電の車両が駅前を徐行し、直角に曲がってJRの高架下に入って行く。高架下の停留所、大塚駅前で停車する。タイミングが合えば、王子側から来た車両とのすれ違いや、高架上を走る山手線との立体交差も目撃出来る。
 実に良い。
 荒川線の車体は、それぞれに異なるデザインで塗装されている。長期に渡った石原都政以降のことであろうが、広告物でラッピングされたものも少なくない。色彩豊かで、バリエーションが多種多様で、見ていて飽きない。その風景が余りにも楽しすぎて、予定していた書き物や読書がほとんど進まない。
 日本上陸のその当初から、スタバには良い印象を持っていない。全てが割高にもかかわらず、フードメニューが貧相な、使いにくい喫茶店というぐらいの評価しかしていない。
 けれども、この風景のためだけに、このスタバはこの場所に存在していても良いと思った。走行する都電の姿を俯瞰するためだけに、この店に通っても良いと思った。
 何時までもこうしていたいが、時間になる。ビルを出て、都電の軌道を渡る。街はまだ明るい。夏は始まったばかりだ。
 
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強いということは卑怯であるということ

2016/07/19(火) 19:49:37 [エッセイ]

 強いということは卑怯であるということである。より正確に言えば、強いという概念の中には、ある種の卑怯さが内包されている。
 強いという概念は、当然ながら対概念として、弱い存在を前提としている。強さ/弱さという属性に基づいて、人間を等級化し、序列化し、価値を決定する思考様式が、その時点から開始される。
 世界でただ唯一の絶対強者を除けば、どのような人間も、ある人間に対しては強く、別の人間に対しては弱い。その現実から、自身より強者に対しては弱く振舞い、弱者に対しては強く振舞う行動様式が、次いで産み出される。ここで言う、卑怯であることの淵源である。
 しかしながら、人間にとって、(強い/弱い)というのは本来の人間性、本来の価値ではない。それはただ、属性の一つに過ぎない。

千川通りの春風

2016/04/27(水) 19:57:31 [エッセイ]

 千川通りの向こう側の中古バイク屋やラーメン屋の幟が、強風に煽られて大きく波打つ。
 商店街の幟の激しい旗めきが、硝子戸の中にいてもはっきりと聴こえる。
 風に対して、何時までも風を叩きつける、この音により、春が始まる。
 風はいつまでも続いている。

土曜日の朝の神田錦町

2016/04/23(土) 21:12:43 [エッセイ]

 千代田区神田錦町は、神田の名を冠してはいるが、いわゆる神田にはそれほど近くは無い。JR神田駅と、半蔵門線新宿線神保町駅と、東西線竹橋駅の丁度中間に位置する、雑居ビルの領域だ。
 オフィス街のため、休日のこの街の朝は遅い。タリーズも小諸そばも九時にならないと開かないため、仕事前に朝食を食べる場所が無い。予報に反して雪になることがなかった小雨が、僅かに静かに降っているだけだ。
 千代田通りに面するオフィスビルの一階に、コンビニを見つける。セブンイレブン神田錦町店だ。とても広くて大きい。
 ただ、この店もやはり朝が遅い。パスタを食べようと思ったが、陳列作業の途中で、出勤時刻に間に合いそうもない。店員の人数も多くない。トレーから引き抜いてレジに持っていくのも気が引ける。
 適当に選んだカップの蕎麦にポットの湯を注ぐ。蛍光灯の白い光が照らす広いイートインの白いテーブルで、手早く朝食を済ます。
 清潔で、とても明るい場所。
 今日の仕事場はちよだプラットフォームスクウェア、千代田区立の貸会議場だ。銀色のチープカシオの素っ気ない時刻表示を確認する。

六本木交差点交番横の金券ショップ

2016/04/16(土) 15:46:13 [エッセイ]

 東京シティビュースカイギャラリーで開催されている「フォスター+パートナーズ展」の入場券を、金券ショップにて大幅に安く入手した。六本木交差点の交番脇のこの店では、昨年十二月に見に行った「フランク・ゲーリー展」のチケットもかなり安かったので、ああ、ここで買えば良かったなと思った。
 暴力的かつ露骨な資本投下の継続によって、六本木一帯を「アートの街」としてブランディングしようとする都市開発が、前世紀末から開始された。圧倒的な経済力によって、その事業は何かを隠蔽しつつ、現在も継続している。世間的には、一応、成功したことになっているようだ。
 どんな街にも、抜け道は、ある。
 なければ、誰かが、作る。
 作られないとしたら、それは生態系として、街が機能していないということだ。
 つまり、その街は、死んでいる。
 この大黒屋のガラスケースに並べられた、様々な意匠のチケットを、改めて眺める。
 取り扱う領域としては、前述「フランク・ゲーリー展」の「21_21designsight」に加え、新国立美術館や、リニューアル後のサントリー美術館などをカバーしているようだ。
 
 ※

 節約した金額で、近くの「小諸そば」で昼食を食べても、まだお釣りが来る。
 この「小諸そば」も、それほど古い店ではない。時期的には、東日本大震災の後に出来た店だろう。それ以前には、この交差点付近には、立ち食いそば屋は富士そばしか存在しなかったように思う。
 一月の首都高の高架下をくぐり、森タワーに向かう。

ドンキホーテ白金台店

2016/01/20(水) 12:11:00 [エッセイ]

 白金台の駅から地上に出て、幹線道路を目黒の方向へ歩く。以前この街に来た時に存在していた、ブックオフ白金台店は無くなっている。一方で、百均ショップのキャンドゥは健在で、ドラッグストアと共に、ロードサイドの空気を、港区目黒区の高級住宅地として一般にイメージされているこのエリアの景観に挿入している。
 ドンキホーテ白金台店は、通常のドンキとは異なった配色の、プラチナっぽいファサードを誇示している。店頭には、六本木店と相同のアクアリウムが設置されている。その店内は、通常のドンキホーテと比較して電化製品が少ない。また、自転車売場がないが、これはスペースの問題だろう。
 そして、アダルトグッズが無い。やはり土地柄に配慮した結果だろう。それは、恵比寿ガーデンヒルズや、六本木ヒルズや、代官山ヒルサイドテラスのツタヤにアダルトビデオが置いていないのと、全く同じ判断だ。そう言えば、かつてこの街にあったブックオフにも、アダルト書籍やビデオのコーナーは無かった。
 それ以外の部分は、自分が知っているドンキとどこか微妙に異なるが、全体的にはやっぱりドンキだった。



 景観としては、むしろ隣接するタワー駐車場の方が、突出した異物感を周囲に放出している。
 そもそも、タワー駐車場自体が、無表情で奇妙な建物だ。
 窓というものが存在しないという決定的な特徴から醸し出されるその異物感は、いかなるファッションビルやデザイナーズマンションでも、到達しがたい性質のものだ。現実の市街地において、直方体の理念形に最も近い形状を提示する建造物。前衛とは対極の、無機質な機能性の追求の帰結としての、その「安定した異物感」は、いかなる高級住宅地においても、いささかも揺らぐことが無い。



 キャンドゥの隣のいなげやのイートインでしばらく休んだ。素晴らしいソファだった。
 外装はやはり凝っていたが、中身は普通のいなげやだった。



動画崇拝者同士の内部抗争

2015/12/26(土) 12:51:47 [エッセイ]

 ユーラシア大陸において顕在化している一連の暴力の連鎖は、いわゆる「文明の衝突」でも、異なる宗教理念上の対立でもないのです。現在の国際社会において進行している武力の応報は、その言葉の通常の意味においての、内紛、同族嫌悪、内輪揉めなのです。だってそうでしょう? 今の地球上に生きる私達は、全て皆等しく、聖体としてのモニター崇拝を日々欠かさず行う、ネット動画真理教の信者なのですから。
 だから、現在展開されている一連の事象は全て、ネット動画真理教徒同士の内紛です。ネット動画真理教ISIL派と、ネット動画真理教先進国派との、分派抗争。最近は目立たなくなりましたが、ネット動画真理教には、タリバン派という分派も存在しています。
 そもそも、インターネット信仰に基づく動画崇拝が、人類社会にここまで広汎に広がらなければ、ISIL派は、あのように無意味に過激で、過剰に演出的で、残虐な死刑執行方法を発案し、実行し、それを公開することはなかったでしょう。それは例えば、テレビ信仰に基づく動画崇拝が普及しなければ、たけしのスーパーウルトラクイズや、一連のドッキリカメラなどの番組が作られなかったのと相同です。
 では、私自身はどうなのか?
 もちろん、私もまた、ネット動画真理教の、教徒であります。
 ネット動画真理教無修正裸身崇拝派、或いは、ネット動画真理教20世紀日本ゲーム音楽懐古主義派に属する、どこにでも居る動画崇拝者の一人に過ぎないのであります。

街も乾いていた

2015/10/15(木) 10:58:45 [エッセイ]

 年長の同僚に誘われ、バドガールが居るというそのビアガーデンに行ったのは、茨城県鬼怒川が決壊して民家に人々が取り残され、ヘリコプターからの救出劇が実況中継された、その日の夜だった。細く長く途切れることのない雨雲が関東地方に豪雨をもたらしたと天気予報では解説されていたが、私達の街は乾いていた。職場からターミナル駅を挟んで反対側のその店まで歩く途中で、駅構内の電光掲示板が中距離列車の遅延を反復して告知するのを何度も目撃した。
 そんな夜のことだから、そのビアガーデンに入った時は、客は他に誰も居なかった。バドガールも一人しか居なかった。水着ではなく、ボディコンのミニスカだった。コースメニューとバドワイザーを頼むと、ビアジョッキの模型を大袈裟にひっくり返して騒いで見せるという、ありがちなドッキリを演じてくれた。
 客が私達二人しか居ないために、そのバドガールは、店の用事をする以外はほとんど付きっ切りで私達のテーブルの傍に居た。ロングヘアーを金髪に染めた、ごく普通の体型の女の子だった。とは言っても、話をしていたのは、ほとんど彼女自身だった。彼女自身が、彼女自身に関する情報を、ひたすら喋り続けて時間が経過したように思う。実家が蕨市だという話、昔はガングロのコギャル(そんな世代か?)で、肌を真っ黒に焼いて熱心にクラブ通いをしていたという話。今までにつきあった彼氏は二人だという話。二番目の彼氏は、シンガポールに転勤になるというので別れたという話。そのどれもが、何だかどうでも良いような話であった。
 その女の子は、顔もスタイルも悪くないように思うのだが、その甲高い声で連射されるマシンガントークに、しまいには何だか疲れてきた。時折、大人しそうなホールのバイトの男の子が控え目に会話に参加したように思うが、彼が何を発言したかは全く覚えていない。まだ学生だという。
 自分も、ほとんど何も話さなかったように思う。
 この店は夏期限定で、毎年最終日には大勢の客が集まって、非常に盛り上がるのだという。その日には来ることができないと同僚が答えると、冬には鍋の店として営業するから、是非来て欲しいという。鍋といっても、何の鍋の店かと聞くと、まだ決まっていないという。
 同僚はまた来ると約束していたが、本当に来るかどうかはわからない。取りあえず、電話番号は交換していたようだ。
 結局最後まで、私達以外の客は来なかった。
 来た路を引き返して駅に戻ると、湘南新宿ライン上野東京ラインも、未だに遅れたままだった。全く酔っていなかった。街も乾いていた。 大規模水害からの北関東の復旧を祈りつつ、帰りの列車の到着をホームで待った。

上野東京ラインの春

2015/08/20(木) 23:47:13 [エッセイ]

 上野駅を発車した上野東京ラインは、山手線や京浜東北線と並走しながら、最も東側を走る。当然ながら御徒町には停車しない。秋葉原のブックオフの脇を通る所で、地下から上昇してくる/地下へと下降する東北新幹線のレールが、更に東側に姿を現す。東京の東側には、高層ビルはさほど多くない。西から中央線が合流してくる神田も通過し、東京駅の10番線ホームに入った。
 この電車にとっては、東京駅は単なる途中停車駅に過ぎない。降りる。すぐに発車する。八重洲側には、一段高くなったJR東日本の新幹線駅がある。タイミングの良いことに、やはり今話題の北陸新幹線かがやき」が停車している。ブラウンと青のラインが入った、新誕生のその車体を仰ぎ見、撮影を試みる。胴体やエンブレムを取りあえず何枚か撮った。
 新幹線の編成は在来線よりも長く、そのホームもまた、長大な編成に合わせて作られている。今いるホームの、最も品川よりまで歩いてみたが、その顔は見えない。発車を待って、ようやく撮ることが出来た。
 次には「はくたか」が入って来る。
 新幹線の反対側、丸の内側のホームを見ると、常磐線に乗り入れる特急「ときわ」の姿もある。

交代劇

2015/08/01(土) 23:48:50 [エッセイ]

 ブックオフ渋谷センター街店が、ヤフオク!との提携店舗「ヤフオフ!」として衣替えをした二〇一四年下半期には、池袋駅北ガード下の東側にあるパルコ系列の商業ビル地下に、ニコニコ動画の本拠地が開業している。
 一方、二〇一五年の春には、池袋駅の東口、西武本店内のリブロの閉店が発表され、七月には予定通りに閉店した。
 ネット由来のビジネスや文化が、現実の繁華街にも出現し、徐々に、確実にその勢力を伸張させていくのと同時進行で、書籍出版に根拠を持つ教養主義及びそれに付随するビジネスは、撤退と衰亡を余儀なくされる。
 副都心駅の片側の、半径二〇〇mにも満たない領域の内側の風景の変遷に、好むと好まざるとにかかわらず、私達の生きている同時代の文化的状況の様相が、無造作かつ鮮明に映し出されている。リブロ閉店と同じ七月の内に、戦後左派論壇を牽引した岩波知識人の巨魁、鶴見俊輔が死んでいる。

松坂屋屋上の魚達の行方

2015/04/14(火) 20:23:04 [エッセイ]

 銀座松坂屋が消滅した。
 二〇一五年の時点において、かつてその店舗が存在していた区画は、巨大な工事現場となっている。
 その店内にかつて存在していた、夥しい質量のモノ達は、一体どこに行ったのだろう? 
 憂慮には及ばない。 モノ達は、別にこの世界から消滅した訳ではない。ただ、見えなくなっただけ、この空間から移動しただけだ。
 その移動先も、おおむね予測可能である。この空間からいなくなったモノ達の過半は、市川塩浜や小田原のアマゾンの倉庫に現在もあり、あるいは増殖し続けるロードサイドの巨大商業施設にあり、もしくは肥大化し続ける各種エキナカ店舗のどこかにある。不思議なことは何もない。ネットビジネスの普及、一般化に伴う流通・小売業の地殻変動が、日本を代表する商業地の景観にも反映されているというだけだ。
 しかしながら、解決しない疑問もある。
 銀座の巨大デパート、いわゆる3Mと称される三越松屋松坂屋の中でも、松坂屋の屋上には最後まで、昭和の雰囲気が残っていた。幼児向けの電子遊具、いわゆるエレメカが設置された遊戯スペースと、観賞魚を販売するアクアリウムショップが存在していた。東日本大震災後の、二〇一一年夏の時点において、私はそれを直接確認している。
 エレメカ達はともかく、アクアリウムショップの魚達は一体、どこに行ったのだろう?
 魚達は今、どの水槽を泳いでいるのだろうか?


 
 松坂屋から見て車道を隔てた反対側に、ユニクロ銀座店が開店した時には、ニュースとしてそれなりに大きく取り上げられたのを覚えている。ゼロ年代の終わりのことである。何時の間にか、その場所はユニクロではなく、GUになっている。銀座からユニクロが無くなったというわけではない。元の場所から百メートルぐらい新橋側に移転しただけなのだが、その移動にどのような意味があるのかは私にはわからないし、そもそもユニクロとGUの違いも良くわかっていない。

強化され続ける警備

2015/02/21(土) 16:32:12 [エッセイ]

 首都圏の各鉄道会社は、駅構内、その管理する鉄道施設内の警備を強化している。少なくとも、私の知る限りほぼ全ての鉄道会社が、その旨を車内、構内に掲示し、またアナウンスをしている。随分前から、そうであるように記憶する。ニューヨーク同時多発テロがきっかけだったのか、地下鉄サリン事件以降のことか、それとももっと以前からそのようにしていたのかは、良く分からない。
 強化され続けた警備が、もうこれで良い、ここより上は無いという最上限に、いつか到達することはないのだろうか? ドラクエやポケモンのレベルのように、警備レベル99でカンストすることはないのだろうか?

万世橋マーチエキュート

2014/11/11(火) 16:02:47 [エッセイ]

 神田お茶の水間の高架下、戦前に存在した旧万世橋駅跡地に、JR東日本の商業施設が開業した。秋葉原側から歩いて行くと、神田川に沿って緩くカーブした高架線の煉瓦造りの外壁が目に入る。その瀟洒な佇まいは、いかにも戦前のモダニズムといった感じがする。
 外観を裏切らず、各種テナントもまた、オシャレ系のショップが揃っている。飲食店、インテリアショップ、ギャラリー……。おそらく、JR東日本とその関連企業は、高架下という空間が持っているイメージを根本的に刷新したいのだろう。その方針はここに限らず、例えば近年の武蔵境~東小金井駅間の高架下開発などにも見て取れる。そしてまた、高架下空間のオシャレ化、ブランド価値化推進路線の陰画として、少し以前に話題になり、サヨク方面やサブカル方面の反発をかった、阿佐ヶ谷駅高架下の大規模リストラがあるのだろう。
 旧万世橋駅については、机上の知識しかない。この地に関する現実の私の記憶は、何よりも幼い頃祖父に連れられて行った、旧交通博物館の思い出である。つまり昭和時代の思い出である。懐かしい。祖父の青少年期において廃された旧万世橋駅の、跡地に残された交通博物館もまた、私の中年期において閉館となった。
 今の私にとって、旧交通博物館が懐かしいように、祖父にとっては、旧万世橋駅が懐かしいのかもしれない。交通博物館は、世紀と元号とを跨ぎ、二十一世紀の平成時代まで存続していたのだが、この新しい商業施設、マーチエキュートは、一体何時までこの場所にあるだろうか? 私の子供の世代か、孫の世代かはわからないが、後世の人々のノスタルジーを喚起し、惜しまれ懐かしがられるような空間になるだろうか?
 高架下スペースのエントランスのような空間に置かれている、旧万世橋駅周辺を再現したジオラマを何となく眺めながら、何となくそんなことを考えた。さすがに精緻に作られている。何枚も写真を撮影した。
 旧駅のホームのスペースを利用したダイニングバーでしばらく過ごす。値段は、やはりやや高目だ。中央線の上下線のレールに挟まれた、絶好のトレインビュースポットだが、客の数はそれほど多くない。私以外には、仕事上の打ち合わせをしているらしきスーツ姿の若い男性二人組と、同じく女性二人組が居るだけだ。金曜日の午後五時過ぎなのに、新しく客が入って来る気配もない。
 オレンジ色の中央線車両に混ざって、カラフルな特急車両が上り線を走ってきた。特急ではなく、青梅ライナーの表示を車体の電光掲示板に掲げている。暫くすると、今度は下り線を走ってお茶ノ水方面へと去っていく。その速度は存外に速く、上手く写真に収めることが出来ない。完全な闇となった秋の空間に溶けるように吸い込まれるように消えていく。

ただ居るだけで、ただ居るだけの

2014/10/21(火) 00:16:30 [エッセイ]

 ただ居るだけで、と書くと、ただ居るだけで周囲に癒しをもたらしたり、愛を与えたりする、プラスの属性を持つ存在についての物語や歌謡曲が始まりそうな気がする。

 ただ居るだけの、と書くと、ただ居るだけの無駄に座席を占有したり、食糧を消費したりする、マイナスの属性を持つ存在についての批判や糾弾が始まりそうな気がする。
 一文字の差異が、ある存在の属性の分岐点となる。
 そういうことが、しばしばある。
 

ライバルは康熙帝

2014/10/13(月) 21:41:06 [エッセイ]

 日本歴代天皇最長、昭和天皇に挑もうとするのは、さすがに日本人としては畏れ多い。
 中国歴代皇帝最長、清の康熙帝を、ライバルと定めよう。
 目標は六〇年。
 とりあえず六〇冊。
 自分の本を出そう。

説明と説得について

2014/10/10(金) 11:04:43 [エッセイ]

 説明と説得は、互いに類似している部分もあるが、本質的に異なる概念だ。
 類似している部分は、いずれも他者に対して行われるコミュニケーション行為であるということだ。
 では、どの部分が異なるか? 
 相手に対して、ある情報を伝達する行為が説明だ。その情報の内容を、相手が把握出来たのならば、その説明は成功だ。相手の把握を助けるために、文書を用意しても良いし、画像やグラフや表を用いても良い。説明とは「情報を伝達する」技術のことであるとも定義出来る。
 説明は技術であるので、その各種要素を細別し、ある程度客観的に分析・評価することが可能だろう。文章術や話術ならば、論理性や会話の好感度。文書ならば各種資料の編集・レイアウトの巧拙。つまり、30点の説明、50点の説明、80点の説明、100点の説明というものが存在しうる。会話術も文書作成術も、学習と訓練によって習得し、向上させることが出来るので、50点の説明を努力と改良とによって80点に高めることも可能である。
 これに対して、説得はどのように異なるか? 自分が望む行動を、相手に行わせるのが説得だ。自分の意志に、相手が従ったのなら、その説得は成功だ。相手を従わせるために、誠意をもって手紙を書いても良いし、賄賂や性的誘惑や脅迫を行っても良い。説得とは「人間を操縦する」政治のことであるとも定義できる。
 説得は政治であるので、各種要素を細別することも、客観的に分析・評価することも出来ない。もしくは無意味である。その結果によって、事後的に評価するしかない。説得には、0点か100点しかない。説得の成否は個別具体的な人間関係によってその都度規定されている(つまり、一回一回異なる)ので、50点の説得が80点になるということもない。

 また、以上のことから、おおむね次の結論が導かれる。
 説明が上手くいかないのは、本人の勉強不足、技術不足、準備不足が原因であることが多い。それは努力によって克服可能であり、次の機会にはより良い説明を行えば良い。
 説得が上手くいかないのは、必ずしも本人が原因、責任があるとは限らない。「醜男/ブスのくせに話しかけるな」「イケメンむかつく」「女のくせに……」「黒人のくせに……」。そのレベルの差別的・感情的な好悪によって、説得はしばしば失敗してしまう。そこまで低レベルではないにしても、著しく極端な政治思想、宗教的信念、その他偏見に支配されている人物を、説得することは困難である。
 人が習得・向上に努めるべきは、説明技術の向上であって、説得力の習得ではない。

白人という利益集団に属しているからだ

2014/09/19(金) 22:42:25 [エッセイ]

 全ての人類は、猿の子孫である。その中でも、霊長類の子孫である。
 そのことから導かれる遺伝子的な必然として、全ての人間は、巨大な集団に所属したがる。そしてその巨大な集団の力を傘に着て権力を誇示し、弱者を虐げ、自己の欲望を達成することを望む。
 人種・性別・国籍を問わず、全ての人間がそうである。例外はない。
 例えば、韓国人の見せる珍妙で醜悪なナショナリズムも、日本人に見られる愚劣極まりない社畜精神主義も、その一例である。
 欧米白人も、この点においては、全く同じである。何の違いもない。
 ただ、欧米白人は、個々の国家や企業体に所属することで、その権力欲を満たしているわけではない。
 彼らは「白人」という巨大なカテゴリーに属することによって、彼らの権力権利権益を保持し、また自らの欲の拡大を図るのである。そうして「白人」という組織体の内部においては、自由や博愛や愛や平等を形式的に実現し、精神的に高踏な存在としての自己を、演出し宣伝するのだ。

湾岸にイングラムを見に行かなかった件について

2014/07/24(木) 22:32:39 [エッセイ]

 数年前の夏に、お台場の潮風公園に実物大のガンダムが姿を現した時には、全く素直な好奇心でそれを見に行った。その湾岸地域のロケーションを観察し、埋立地にふさわしいのは、ガンダムよりも『機動警察パトレイバー』のイングラムではないかと当時は考え、そういう内容の文章を書いた。(第三詩文集『電線上のハクビシン』所収。)
 イングラムの実物大オブジェが湾岸埋立地に登場することなど、現実にはありえないと思っていた。団塊ジュニア世代以降の圧倒的な支持を今なお受け、ゲーム・玩具産業の収益を支え続け、社会的にも大きく取り上げられるガンダムと異なり、今の時点においてパトレイバー氷河期世代の、ごく限られたクラスター(オタクと一部サブカル)の偏愛と回想の対象に過ぎないと、思っていた。
 だからこの春に、豊洲に実物大のイングラムが現れたと聞いた時には、少し意外に思った。見に行く気にはならず、結局行かなかった。良い思い出は良い思い出のまま保存しておきたい。今になって実写化なんて。
 前世紀に創作されたコンテンツの再利用(リサイクル)を延々と繰り返すだけの現在の文化産業にも、それを消費して年老いていくだけの同世代の文化的実存にも、疑問を抱かざるをえない。もちろんそれは、ガンダムパトレイバーに限った問題ではない。黄金期ジャンプマンガ、ドラクエやFFといったテレビゲームのビッグタイトル、ジブリ映画……。十年代の日本において、かなり広汎に観察される事象ではある。何故パトレイバーだけには、私はことさら過敏になってしまうのか?
 それはおそらく、私達の世代においては、、少なくとも私個人においては、ガンダムは純粋に童心において遊ぶコンテンツであったのに対し、パトレイバーは思春期の多感な時代に吸収した物語だったからではないかと内省する。つまり、ガンダムは、主に小学生時代に、プラモデルやSDガンダムのカードダスやシミュレーションゲームにおいて消費するコンテンツであった。パトレイバーを見たり読んだりしたのは、内面的にも社会的にも意識が拡大する思春期だ。(媒体も思春期にふさわしく、少年サンデーだ。)西ドイツの国境警備隊のレイバーが登場するフィクションと並行して東西ドイツが統一され、東南アジアのPKOで部下を失った自衛官がテロリストとなる映画と前後して、現実のカンボジアPKOでも自衛官の犠牲者が出る。もちろん、ロボットアニメというジャンルの制約内における表現ではあるが、それなりの社会性と同時代性がパトレイバーには刻印されており、また十代の拙い思考回路なりに、それを把握しようとした当時の自分自身が、この作品を見る時には必然的に投影されてしまう。
 そうではないパトレイバーなど、パトレイバーではない。少なくとも、私にとっては。



時代とは非情なるもの誰も皆そのままの君ではいられない



 特車二課は、東京湾岸のどの自治体に所在しているのだろう? 江東区か港区か? それとも品川区か? まさか大田区ではないだろうと思うが。

ネクタイと抽象絵画

2014/01/02(木) 09:52:40 [エッセイ]

 抽象絵画の価値を全く認めない人間でも、自身のネクタイを選ぶ際には、どんなに安い売場であっても、自分なりの審美眼や美意識を最大限に発動する。そうしてその中から、自身の価値判断において最も好ましい一本または数本をレジに持っていく。
 美的感覚、美を愛好する心は、おそらく全人類の中に普遍的に備わっていて、抽象の美を理解する能力もまた、全ての人の中に最初から存在している。ただ、現代美術という一つの閉ざされたギョーカイの中で肯定されている作品群に、人々の中の眠れる美的希求に応答する能力がどこまであるのかは良く知らない。

雑念

2013/12/22(日) 13:57:11 [エッセイ]

 我々が雑念と呼んでいるものの方が、実は生物として純粋な思念で、理性と呼んでいるものの方が、実は不快な挙動なのかもしれない。
 そうではないと言えますか?

愛奴と愛隷

2013/12/15(日) 22:35:19 [エッセイ]

 SM専門誌や官能小説等で女性のマゾヒストを指す「愛奴」という言葉がある。
 一方、「愛隷」という言葉は無いように思う。
 これは、当該編集者やライターの学歴が低くて、「隷」という漢字が彼らにとっては難し過ぎるからではないだろうか?

トルコライス

2013/08/21(水) 02:12:28 [エッセイ]

 ピラフとナポリタンスパゲッティの上にトンカツを乗せた料理「トルコライス」がトルコの料理人から批判を受けたと報じられた。トルコ人はイスラム教徒なので、豚肉は食べないと。そりゃそうだ。
 近所のスーパーで売られている「アラビヤン焼きそば」をひっくり返して原材料を確認してみると、果たして豚挽肉を使っている。その製造元であるサンヨー食品が中東諸国から抗議されたというニュースは、まだ聞いたことが無い。

「激おこ」の由来を推測する

2013/05/24(金) 12:34:17 [エッセイ]

 少し前に流行った「激おこ」とか「激おこぷんぷん丸」とかの若者言葉だが、あれは「激怒」の「ど」が読めないどこかのドキュンが言い始めたのが広まったのだろう。小学校低学年並みである。

集団将棋

2013/04/06(土) 01:21:43 [エッセイ]

 プロの将棋棋士がコンピューターと対戦して敗北するニュースをたびたび聞くようになったが、その時に使用されているコンピューター本体はどれぐらいの性能で、また何人ぐらいのスタッフがプログラム作成に動員されているのだろう? ハードディスクが何台も連結されたようなスパコンが相手ならば、人間の棋士の側も何人かでチームを組むことが許されるのではないだろうか? もっとも、誇り高いプロ棋士同士で、合議に基づいて指し手を決定するような作業が可能かどうかはわからないが。

マンガ家で街おこし?

2013/03/28(木) 23:03:53 [エッセイ]

 マンガやアニメのキャラクターを前面に掲げて街おこし、観光振興というのが、この十年ぐらいの地方自治体の流行である。それは大別すると、作品自体がその地域を舞台としているという場合と、作家の住居や作品が創作されたスタジオがその自治体に所在する場合とに分けられる。(その二条件を両者とも満たすこともある。)後者はまた、創作者がその自治体に居住している場合(主に首都圏近郊)と、幼少期を過ごした場合(主に地方都市)とに細別される。
 首都圏近郊の例を挙げると『ゲゲゲの鬼太郎』の調布市、『こち亀』の葛飾区、『クレヨンしんちゃん』の春日部市等々。地方都市だと、同じ『鬼太郎』の場合でも鳥取県境港市(水木しげるの生育地)となる。宮城県石巻市(石森章太郎の生育地)、富山県高岡市(両藤子不二夫の生育地)等の事例がある。
 またそのような事例とは別に、最初から観光振興を主目的としたプロジェクトとして、当該自治体の協力を得て御当地アニメを創作する場合もある。
 別にそれはそれで良い。
 他方、それらの創作活動に従事するクリエイターの諸権利は、未だに十全に保証されていないとも聞く。
 それならば、「マンガで街おこし」ではなく、「マンガ家で街おこし」を考えてみてはどうだろう。
 どこかの適切な自治体が、計画的にそれらのクリエイターの移住を図る。権利関係の交渉代理などを、組織的かつ効率的に行う部署や仕組みを作る。駆け出しで、生活が困窮している者に対しては、住民税などの延納措置なども考える。(もちろん、作品がヒットしたら倍返しにしてもらう。)
 あるいは、作家の側が集団を組織して、どこかの自治体を乗っ取ってしまっても良い。その選挙区から、自分達の代表を地方議会や衆参両院に送り込んで、クリエイターの法的権利や生活を守るような条例や法律を立法していく。日本には既に、トヨタ自動車の豊田市や天理教の天理市が存在する。オリエンタルランドの浦安市も前例に加えても良いかもしれない。
 後者の場合だと、どこら辺が良いのか? 自治体の規模としては、小さい方がやりやすいだろう。かつあまり地域独自のカラーが無い街。(特定の宗教団体や市民団体が跳梁跋扈している地域は避けたい。)出来れば交通の便もそれなりに良い場所。土地はそんなに必要ではないだろう。
 とりあえず私が思いついたのは、東京都狛江市と埼玉県蕨市だ。他にもっと適切な自治体があるかも知れなし、上記で挙げた以外にも重要な検討事項が出てくるかもしれない。あくまでも一案である。

交通上のドキュンネーム

2013/01/08(火) 22:52:45 [エッセイ]

 埼玉県南部に出来た武蔵野線の新駅「吉川美南」駅からは、いわゆるキラキラネーム、DQNネームの気配がそこはかとなく漂って来る。オタク受けを狙ったのか、不動産業者を意識したのかは知らないが、とにかく何者かに媚びて追従笑いを浮かべているあの気配を感じる。気に食わない。私は今まで、首都圏近郊で新しい駅が開業する毎に訪問していたが、この新駅には行く気になれなかった。
 鉄道会社には、昔からそのようなビヘイビアがしばしば観察された。「たまプラーザ」とか、「ひばりが丘」の類である。
 ところが、ある時首都高の地図をなんとなく眺めていてふと気がついた。首都高のサービスエリアやパーキングエリア、インターチェンジの名称には、そのようなドキュンネームがほとんど見当たらない。管見の限り、いずれもシンプルな地名、もしくは地名+地名の硬派なものばかりだ。
 私自身はどちらかというと、クルマ文化より鉄道文化よりの、オタク的な体質の人間だと自認して来たが、その施設のネーミングセンスに関する限り、鉄道会社より高速道路会社の方にシンパシーを感じざるをえない。まあ武蔵野線に関して言えば従来から、「西~」「東~」とか「新~」という駅名がやたらに多かったという特殊事情から、強引に差異化を図らざるをえなかったという側面もあるのかも知れないのだけれど。

マリファナ如きが酒に勝てるわけがない

2013/01/07(月) 01:36:03 [エッセイ]

 デンプンを糖化した上で醗酵させてアルコールを作るか、もしくは直接糖分を醗酵させてアルコールにするか、いずれかの工程を経て人は酒を手に入れる。世界のどの地域であれ、その根本にある化学反応は変わらないが、原料となる植物・穀物はもちろん単一ではない。米・麦・芋・葡萄・サトウキビ・蜂蜜・・・・・・。純粋に自然科学的に見れば、デンプンもしくは糖分を含む食物なら全てがアルコールの原料になりうると言えるが、通常はその土地で最も栽培に適した栽培植物が選択され、歴史的・文化的に定着している。アルコールの歴史は地域の食文化・農耕・栽培植物の歴史と一体であり、風土と歳月と膨大な試行錯誤とを背負って現在まで存在している。
 麻薬の中でも、マリファナ大麻はその毒性が少ないほうだという。生理学的・医学的に見れば、むしろ酒よりはその毒性は小さい方だという。社会に与える影響においても、酒による酩酊が原因の飲酒運転や暴力や転倒事故より、マリファナがもたらす同種の悪影響の方が、実は小さいのではないかという予測もあるという。
 そのような見解を反映してか、先進国の一部では条件付でマリファナの使用が許可されている場所がある。最近新しく、アメリカの一部の地域でも解禁され話題となった。
 けれどもその快楽性はともかく、その祝祭性については、結局マリファナは酒には全く及ばない気がする。マリファナは生物の大脳を刺激し、一時的に高い快楽を与えてくれるかもしれないが、酒を呑む時に人は栽培植物の歴史を自らの一部としているのだ。
 

沢の蜘蛛

2012/07/19(木) 21:58:02 [エッセイ]

 ある渓谷の最上流の宙空に、蜘蛛が巣を張っていた。
 早い水流に反射する細かい光によってその糸は巧みに姿を隠していた。
 沢とか淵とかに棲みついたヌシのような蜘蛛が人を喰らうというような昔話を子供の頃に良く聞いた気がするが、沢と蜘蛛との組み合わせは確かに理にかなったものであると思った。

アサヒビール本社社屋屋上の、排泄物に例えられることが多いあのアレ……

2012/04/24(火) 00:27:31 [エッセイ]

 東京スカイツリーの開業を間近に控えて、世間の関心が大きく墨東エリアに向いている今だからこそ、改めて指摘しておくべきだと思う。浅草から隅田川を渡った対岸にある、アサヒビール本社ビルの、屋上に置かれた、例の、棒状の、動物の排泄物のうちの、固体状の方の名称でしばしば世人から呼ばれる、あのアレについてである。
 なるほど、確かに、そのように呼ばれても、仕方のない外形を、あのアレはとっている。固形状排泄物は、現実にはあのような黄色はしていない。健康な成人が生産するものならばまず、もっと濃い茶色をしているだろう。しかしながら、あの色彩は、液体の排泄物に酷似している。どこか不潔さを感じさせる。その、人々が持っている液体排泄物の色彩のイメージと、固形排泄物の形状のイメージとが複合されて、結果として人々の意識のうちに像を結んだイメージはやはり排泄物であったという、その複雑なプロセスの存在を人は正当に認識するべきだろう。
 形状についても、また再検討の余地がありそうだ。その次第に細くなって途切れたような形状は、まさしく、直腸の直下において、括約筋と有機物とが繰り広げる最後の闘争の痕跡を連想させる。菊形の関門によって加えられた、最終的な、決定的な切断によって刻まれた形状と、極めて相似した雰囲気が確かに、あのアレにはある。そのことは否定できない。
 だが、そこに陥穽がある。
 もし固形状有機排泄物があのように、地球上の任意の平面に横たえられたとして、その切断された尾部はあのように宙に浮くだろうか。風にたなびくだろうか? 否。答えは否である。固形状有機排泄物であったとしたら、その終尾の部分は、重力に耐えられずにベチャリと地平に平伏すはずだ。
 そういうと、以下のような反論が予想される。それはある程度以上に軟らかい固形状排泄物の場合であって、必ずしも全ての場合に当てはまるものではない。世界には固さを保持した有機排泄物も存在しているではないかと。それに対する答えはこうだ。なるほど、そのように固い有機排泄物も有るかもしれないが、それは果たして、棒状で世に送り出されるものなのか? 固さを保持した有機排泄物は、むしろ小球状の連なりとしての形状を取るのではないかと。
 結論。隅田川東岸、アサヒビール本社ビル屋上に置かれた、その極めて野糞的な存在として世間一般にイメージされている、例の、棒状の、あのアレを、野糞として認めることは出来ない。 

DQNネームの効率性

2012/02/11(土) 02:24:03 [エッセイ]

 今年命名された赤ちゃんの名前ランキング的なものを年末に見るたびに、いわゆるDQNネームの多さに驚くとともに、将来の面接官はとりあえずそいつらを弾いていけば良いのだからある意味楽なものだと思わされる。

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