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【ノート】自由律俳句上の自意識表現

2008/07/31(木) 00:54:37 [【思索】詩作ノート]

今、柄谷行人の記述(「詩と死――子規から漱石へ」『漱石論集成』平凡社ライブラリー所収)に従って、和歌俳句の関係を整理すると、以下のようになる。

和歌:下の句の七七によって、完了し内面化された表現
俳句:切断=未完成を含んでいるが故に、短さが短さに終わらない。内面化される手前での中断を含むが故に、即物的に見える。

子規和歌改革は、和歌俳句にしてしまうものだと柄谷は指摘する。

そうならば、そのような子規和歌改革と、表現において正反対の方向性を模索したのが、山頭火放哉と言った自由律俳句の俳人(詩人)達であると言える。通常の俳句で切断され、子規が近代短歌の七七の部分から排除しようとした内面化と自意識の部分が、これらの俳人の自由律俳句においては、前面に押し出されている。要するに自由律俳句は、全体が自意識と内面化の表現なのだ。


山頭火

また見ることもない山が遠ざかる

どうしようもないわたしが歩いてゐる

鳴いて鴉の、飛んで鴉の、落ち着くところがない



放哉

一日物云わず蝶の影さす

なぎさふりかえる我が足跡も無く

底が抜けた勺で水を飲もうとした



放哉に関してはともかく、山頭火については確実にそうだと断言出来る。山頭火自意識の強さは、「一人一室一灯」に執着し続ける行乞中の日記の記述から見ても明らかだろう。山頭火は自己を捨て去るためではなく、孤独な自己を再確認するために遙かなる行乞の旅に出たのだと言える。山頭火が詠んだのは、行乞の旅においてその目に映じた風景ではなく、ひたすら自分自身の孤独、もしくは孤独な自分自身そのものなのだ。

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夏目漱石「夢十夜」

2008/07/30(水) 01:37:43 [ボキャブライブラリー]

森閑として……静まり返った様子。
大自在……少しの束縛も受けない自由自在な境地。

女芸人の領域

2008/07/30(水) 00:17:56 [詩文・俳文]

玉袋筋太郎という芸人が居る。
北野オフィスに所属する、たけし軍団の一員で、
芸人ルポライターとしての著作もある水道橋博士と二人で、
浅草キッドという漫才コンビを組んでいる。

玉袋筋太郎という芸人が居る。
NHKに出演する時は、
さすがにこの芸名ではまずいらしく、
臨時に別の名前を使用するようだ。

近年、女芸人女性タレントの中でも、
ヨゴレ系のトークや役回りをこなす者が、
それなりに増えて来た。
しかし、未だ不十分な気がする。
玉袋筋太郎という芸人がいるのなら、
小陰唇ヒダヒダ子という芸人がいてもいいはずだ。
だが居ない。

おそらくこの辺りに、現在の女芸人の限界、
もしくは未開拓の大地、
まだ見た者の居ない未知の領域があるのであろう。
また男性器の名称を口にすることよりも、
女性器の名称を口にすることに対する禁忌がより大きいのならば、
そこには現代の日本における
ジェンダーの非対称の一側面が現れているのであろう。

ムーミンフェアのキャッチコピー

2008/07/29(火) 00:50:07 [【07-08】雑司ヶ谷下水道水難事件]

少し前から、各種コンビニの店頭では
ムーミンフェアをやっているようで、
二話収録のDVDとか、その他様々なグッズが売られている。
私より少し上の世代をターゲットに、
ガンダム関連の食玩やフィギュアやグッズを売りつける
いわゆるガンダム商法は、
コンビニでもかなり頻繁に見かけていささか食傷気味なのだが、
ムーミン商法は余り聞かない。

そのキャッチコピーは、
スナフキンダンディズムを、
ミイハードボイルドを学ぶ
というものらしく、雑誌棚の目につく所に掲げられている。

悪くない。
中々良く出来たコピーだと思うのだが、
しかし私だったら、
ムーミン世界の多様な魅力を表現するために、
敢えてこのように書いてみたい。

ニョロニョロエソテリシズムを、
モランリリシズムを感じる。

なぜならば、
他の存在には全く理解できない、
独自の言語、コミュニケーション体系、社会システムを持ち、
常に自らに内在的な価値基準で行動するニョロニョロの振る舞いは、
まさしく秘教的と呼ぶにふさわしく、
また、冬季限定のキャラクターであり、
触れるもの全てを凍てつかせるというモランのキャラクター設定は、
叙情そのものであるからである。

流水のアゲハ

2008/07/28(月) 00:22:04 [【07-08】雑司ヶ谷下水道水難事件]

工事中の一戸建て住宅の庭から流れる水に一匹のアゲハが舞い降り、
ストローのような口を伸ばして、
夢中で渇きをうるおしている。
時折場所を変えては、
ずいぶんと長い間飲み続けていたようだ。

狭い道をトラックが通ると、
その風にあおられてアゲハの姿が見えなくなった。
しばらくしてから、あらぬ方向から姿を現して、
何事も無かったかのように
さっきと同じようにまた湿った路面に羽を降ろす。



作庭流水アゲハを取り

エアコンのフィルター

2008/07/27(日) 00:28:00 [詩文・俳文]

暑くなってエアコンをつけるたびに咳き込む。
悪いが風と共に撒き散らされているのかも知れないと思い、
思い切ってエアコンを掃除することにした。
表面をクリーニング用ウェットティッシュで拭くと、
湿ってダマになったがボロボロと落ちるが、
イマイチ綺麗にならない。

送風口の辺りをゴソゴソといじっているうちに、
フィルターの部分が取り外し可能なことに気がついた。
5年以上のが綿状に厚く蓄積されている。
丈夫に作られた和紙のようでもある。

風呂場でフィルターからを洗い流して
エアコン本体に嵌め込み直すと、
その網目がはっきり見える。
新発見である。
始めて見るぞ!
うちのエアコンって、こんな外見をしていたのか!

【映画】バグズ・ワールド

2008/07/26(土) 23:25:27 [【映画】観映グゥ評]


池袋のシネマサンシャインという映画館で、
『バグズ・ワールド』という映画を見る。
社会性昆虫であるシロアリとサスライアリの生態を
微細に観察したフランスのドキュメンタリー映画だ。

【続きを読む】

夏目漱石「京に着ける夕」

2008/07/26(土) 01:02:30 [ボキャブライブラリー]

倏忽……たちまち

料峭たる……春の寒さの形容

微茫……はるかにかすんでいる状態

依稀……ぼんやりして明らかではないさま

柄谷行人「詩と死」(2)

2008/07/25(金) 23:27:21 [引用▼日本]


……子規が連俳を拒否したのは、俳句を「詩」たらしめようとしたからだといえる。それは、俳句を個に閉じられた近代詩たらしめることではなく、俳句に、けっして内面化しえない他者性をもたらすことであった。他方、虚子が連俳を積極的に回復したとき、それは近代詩への懐疑に根ざしていたのではなかった。したがって、それは宗匠制に帰着しただけである。

 連俳を排した子規の意図は、俳句の、切断性あるいは反完結性を強めることであったといってよい。それは、俳句をたえず「現在」たらしめる。写生文が「現在形」で終わっているのは、そのためである。和歌が上下の句の反照関係によって「時間」を持ち、したがって物語を内在させているとすれば、俳句はそれを切断する。漱石が、写生文の特質の一つを、筋がないことだといったのは、その意味である。……

幸せのボックスワゴン

2008/07/24(木) 23:27:55 [詩文・俳文]

私が週末に詩を売っている歩道のスペースは、
地下鉄駅入口の傍らにあるので、
駅構内の飲食店や売店に物品を搬入するボックスワゴン
時々横付けに停車する。
そうすると私のシートは、ほとんど完全に遮蔽され、
道行く人々からは見えなくなってしまう。
ワゴンの運転手はいつも礼儀正しく、
申し訳なさそうに私に挨拶をしてくれる。
公共のスペースで勝手に自分の事をやっているのは、
むしろ私の方なのに。
(歩道上に車を乗りあげるのも、余り良い事とは言えないが……。)

ボックスワゴンが視界を遮るから、
その間は詩集も売れないだろうと人々は思うだろうが、
そうではない。
むしろ逆なのだ。
ワゴンが目の前に止まっているその時に限って、
何故か詩集の売り上げは良いのだ。
何故なのだろう?
不思議である。
理由は何故だか良くわからないが、
私はこの車を「幸せのボックスワゴン」と呼んでいる。

柄谷行人「詩と死――子規から漱石へ」

2008/07/23(水) 00:24:33 [引用▼日本]


先に、私は、子規は最も短い俳句を選んだとのべた。しかし、俳句はたんに短いのではない。それは、和歌において、下の句の七七によって、完了し内面化されてしまうものを、中途で切断してしまうものであり、そうであるがゆえに、切断=未完成を含んでいる。したがって、短さが短さに終わらない。

俳句における「写生」性は、そのことと関係している。つまり、俳句は、物がリアルに描かれているからではなく、内面化される手前での中断をはらむがゆえに、即物的に見えるのだ。子規はいう。「発句に於ては、歌よりも短しと雖も。一種特有の質ありて。言外に余剰を含蓄するに於ては。詩や歌の比にあらず」…引用者略…

具体的にいえば、俳句の恋愛詩は、かりにありえたとしても、考えにくいだろう。対照的に、新体詩系の詩人は、おおむね桂園派の歌人からきており、したがって、恋愛抒情詩である。しかるに、子規の和歌改革は、先に述べたように、和歌を俳句にしてしまうことである。和歌から新体詩形へ移行したロマン派詩人は、和歌の字数を引き延ばしたという意味もふくめて、自身同じコースを辿った柳田國男がいったように、和歌の「延長」なのだ。いいかえれば、新体詩から小説へという「革新」のコースには、本質的に子規がいうような「革新」が存在しないのである。

守宮噛みつく

2008/07/22(火) 07:31:27 [【07-08】雑司ヶ谷下水道水難事件]

徳川黎明会の通りに一匹の守宮が落ちている。
ピクリとも動かない。
ソフトビニールで作ったおもちゃの類のようである。
車にでも轢かれたら可哀想だと思って拾い上げると、
機嫌を損ねたのか突然人差指に噛みついて来る。
爬虫類なので牙らしきものもないのだが、
渾身の力が込められているのでそれなりに痛い。
血は出ない。
近くの住宅の生垣にそっと逃がしてやった。



懸命に守宮噛みつく指の腹

夏のキチョウ

2008/07/21(月) 04:18:42 [【07-08】雑司ヶ谷下水道水難事件]

近所のスーパーの店頭では、
特定の曜日ごとに園芸業者がやってきて、
小さな市を開いている。
夏の花々につられてか、
ある日一羽のキチョウを見かける。



灼熱を放射する夏のアスファルト
キチョウの低く力無く飛ぶ



キチョウは成虫で越冬するというから、
寒さに強く、暑さに弱いなのかも知れない。

越谷レイクタウン

2008/07/20(日) 07:04:19 [【07-08】雑司ヶ谷下水道水難事件]

昼間は十分に一本間隔の運転と、
武蔵野線は首都圏の近郊電車としてはかなり本数が少ない。
駅間の距離もかなり長く、むしろ中距離路線のようである。
車窓から、埼玉東部の低地地帯の風景を眺めると、
一戸建て住宅、マンション、何もない空き地……。
等間隔で一直線に並んでどこまでも遠くまで続いている送電線の姿が、
見る者のささやかな旅情をかき立てる。

この三月に新しく出来た越谷レイクタウン駅には、
ほとんど人の気配がない。
南口には、越谷南高校が在るが、
それ以外は本当に何もない。
ほとんどの区画が、工事中で立ち入り禁止となっている。
エノコログサが生えているだけの何もない空間で、
掘削機、ショベルカー、ブルドーザーといった重機だけが動いている。

北口にもほとんど人気はないが、
こちらには出来たばかりのバスターミナルがある。
出来たばかりのマンションや分譲住宅がある。
一軒だけぽつんと建っている保育園。
また縄文遺跡の跡地に作られた公園。
その公園に一羽の鳥。

シジュウカラ?
……にしては首周りの黒帯が太すぎる。
(シジュウカラはネクタイ模様。)
それに尾羽が明らかに長い。
調べると、どうやセキレイの一種のようだ。
ハクセキレイか、セグロセキレイかまでは正確にはわからなかったが。



シムシティ開始直後の空白の
レイクタウンに鶺鴒の鳴く



レイクタウン全てこれから開闢の
地に相応しき鶺鴒の影



何も無い空き地に鶺鴒ただ一羽



(おそらくこれは、
レイクタウンを詠みこんだ世界最初の短歌であり、俳句であろう。)

荒野と言うよりも、平野と言うよりも、平原と言うよりも、
人工的で無機質で、殺風景な空間というニュアンスを込めて
「平面」と呼びたいこの街。
セキレイの生態は
「広い河川、農耕地、市街地の空き地など開けた環境を好む」
「開けた地上を足早に歩き、虫を食べる」とあるから、
まさにこの場所に好適合ではないか。

北口をさらに直線に進むと、巨大な池に辿り着く。
レイクタウンの呼称の由来となっているところの、
大相模調整池である。
付近の河川の氾濫を防ぐための池だと言うが、
その周囲の遊歩道もまだほとんど工事中で
入る事ができない。
それにしても、この埼玉の地でどうして相模なのだろう。

九月にオープン予定の、
巨大な駐車場を備えた巨大なイオンの外側を回って、
池の向こう側の幹線道路まで歩く。
通行する自動車の数はまだ少ないが、
沿道にはライダーズショップ、オートショップなどの、
クルマ関連のロードサイドストアが立ち並ぶ。
一軒だけぽつんとあった喫茶店で、
やたらに旨く感じられる焼うどんを食べながら、
これからの時代は車よりもむしろLRTの方が
美的かつ経済的で環境にも優しいのにと考える。
LRTを敷設するなら、
土地が腐るほど余っている今のうちが一番やりやすいだろう。

武蔵野線の高架上を、
黒いタンクを連ねた貨物列車の長い編成が
機関車に牽引され西に向かってゆっくりと進んで行く。

東西線の短歌

2008/07/19(土) 06:14:33 [【07-08】雑司ヶ谷下水道水難事件]

東西線千葉より来たる青き波
うねりつつ添うカナリアの友

柄谷行人『草枕』解説

2008/07/18(金) 00:42:50 [引用▼日本]


……漱石はこの作品において、“現実”を無化するところに成立する“想像的なもの”の優位を、あるいは現前性に対して不在性の優位を確保しようとしているのだから。そして、それを可能にしているのは、つぎのような文章である。

しかも此姿は普通の裸体の如く露骨に、余が眼の前に突きつけられては居らぬ。凡てのものを幽玄に化する一種の霊氛のなかに髣髴として、十分の美を奥床しくもほのめかして居るに過ぎぬ。片鱗を潑墨淋漓の間に点じて、虬龍の怪を、楮毫の外に想像せしむるが如く、芸術的に観じて申し分のない、空気と、あたたかみと、冥邈なる調子とを具えている。(中略)

輪廓は次第に白く浮き上がる。今一歩を踏み出せば、折角の蟐娥が、あはれ、俗界に堕落するよと思ふ刹那に、緑の髪は、波を切る霊亀の尾の如くに風を起こして、莽と靡いた。渦捲く烟りを劈いて、白い姿は階段を飛び上がる。ホホホホと鋭く笑ふ女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第に向かへ遠退く。……



 これは画工がいた風呂場に、那美という女があらわれ且つ消える情景である。まず驚かされるのは、何ひとつ明確なイメージを指示しない語(漢語)の奔放な駆使である。漱石が『草枕』を書く前に『楚辞』を読みかえしたという事実は、この小説が徹頭徹尾“言葉”で織りあげられたものだということを証している。
 漱石が当時の“文学”を嫌ったのは、漢文学・俳句への趣味をもっていたからというよりも、たぶん彼が過剰に“言葉”をもっていたからだといえる。近代文学の文章は非常に貧しい。それは、近代文学が言葉の戯れで成り立っているような文学を斥け、現実あるいは内的現実の「表現」として成立しているからである。そこでは、言葉はなにかをあらわすための記号にすぎない。しかし『草枕』の言葉はそのような機能から解放されている。それは現実を指示していないし、内的現実をも指示していない。

(中略)

……たとえば、『草枕』を最後まで読んだことのない読者でさえ、「山路を登りながら、かう考えた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。……」といった言葉をすらすらと踊んじることができる。その場合、われわれはそれらの言葉の意味を考えるために立ちどまったりはしない。が、それは作者にとって不本意な読み方ではないだろう。われわれはたんに『草枕』の多彩に織られた文章のなかを流れて行けばよい。立ちどまって、それらの言葉が指示する物や意味を探すべきではない。漱石は、そのように書かれそのように読まれる作品が“文学”として受けとられないことをむろんよく承知していたのであり、むしろそのような状況において『草枕』を挑発的に書いたといえる。

『批評とポストモダン』福武文庫もしくは『増補漱石論集成』平凡社ライブラリー所収

【ノート】パスティーシュ詩の概念

2008/07/17(木) 02:06:21 [【思索】詩作ノート]

パスティーシュ詩とは何か。
それについて説明する前に、
やはり李白「静夜詩」から。

牀前看月光
疑是地上霜
挙頭望山月
低頭思故郷



以下、拙訳。

寝床の前に月光が差し込む
まるで地上の霜のようである
頭を挙げると山月が望め
頭を下げると故郷のことが思い出される


これを試みに「パスティーシュ詩」にすると以下のようになる。

寝床の前に月光が差し込む。
とぼけるな!月が真円を描く夜こそ
サイヤ人がその本領を発揮する時ではないか。
戦闘力たったの5(笑)カカロット(笑)ブルーツ波(笑)。
「月にかわっておしおきよ!」
ということですね。わかりますわかります。



現代におけるパスティーシュもしくはパロディの難しさというのは、
その元ネタをどこから引いて来るのか、
元ネタとなるべきテクストがどこまで共有されているのか、
正確な予測が難しいという点にある。
これは拠るべき古典を喪失した
「近代日本における人文的教養の包括的地盤沈下」とでも
言い表せる状況かも知れない。
この作例では、
世界で最も売れたマンガ作品と、
90年代の日本において最もポピュラーだったアニメから
それぞれセリフを借用しているが、
それが理解されるかどうかは、
確実ではない。

そういった、インフラ的もしくは下部構造的な難しさがあるのだが、
だがパスティーシュという技法自体には、
大いに可能性や魅力があると私は考える。
知性、知力、知識、諧謔の精神といったものが
少なからず必要とされる手法であり、
現時点の私にそれを作成するだけの
力量があるのかどうかという不安はあるのだが。
(特に私は、自分自身の笑いのセンス、
ギャグセンスの無さを自覚している。)

また、過剰に凝り過ぎた趣向の作品を作ると、
アバンギャルドなものになり、
高橋源一郎の小説のように、
特定のマニアックな読者以外には
理解不能なものになりかねない。

しかし上手く的中すると、作者と読者の間に
緊密な相互理解が生まれ、知的な一体感を
感じることが出来るだろう。
そのパロディを理解するということは、
とりも直さず両者が共通の知的基盤に属するという事実の
経験的なレベルでの確認作業に他ならないからである。

それでも、少なくとも、ただ自分の感情を爆発させるだけの、
シャウト系」の言語表現よりは、
幾分なりとも高級なものが生まれる可能性があるのではないか。

シャウト系」の言語表現はファシズムに近い。
それはヒットラーユーゲントが最も好んだ手法であり、
若者がキャンプファイヤーを囲んで、
夜を徹して互いの悩みを打ち明け合って
一体感を共有するというイベントは、
ナチスドイツ時代に定式化された。

逃げるバッタ

2008/07/16(水) 01:25:32 [詩文・俳文]


吾捨ててショウリョウバッタよどこ逃げる

掻痒

2008/07/15(火) 00:04:05 [【07-08】雑司ヶ谷下水道水難事件]

七月や皮膚バリバリと掻き毟る

【ノート】「理系詩」の基礎概念

2008/07/14(月) 03:51:57 [【思索】詩作ノート]

詩というのは、作者自身の心情を吐露するものだ、
シャウトするものだという思い込みが、
現代の人々においてはまだまだ根強いのではないか。
別にその事、そのような詩の在り方を
私はことさらに否定するものではないが、
しかしまた別のアングルからのアプローチがあっても
良いのではないかとも考える。
言葉を道具として多様な表現を実践することが、
広義の詩の定義だと思うからである。

例えば、李白静夜思という五言絶句がある。
四行詩の世界的な傑作であり、
日本においても最も良く知られた作品である。

牀前看月光
疑是地上霜
挙頭望山月
低頭思故郷


稚拙ではあるが、
自分なりに訳してみると以下のような感じになる。

寝床の前に月光が差し込む
まるで地上の霜のようである
頭を挙げると山月が望め
頭を下げると故郷のことが思い出される



理系詩」とは一体何のことか。
この四行詩を本歌取りして一作作ってみたい。

寝床の前に月光が差し込む。
地球生命が誕生する時代に、
降り注ぐ隕石を盾となって浴びたのが月だと言う。
衛星とはその本来の字義通り「衛る星」のことであり、
凸凹のクレーターはその闘いを今に伝える遺跡なのだ。


作例としては余り上手くは出来なかったが、
まあこのような感じである。
つまり「理系詩」とは大雑把に言って、
理屈や歴史や自然科学の知識によって、
全体の構成が導かれる詩とでも思って頂きたい。

何故そのような概念を唐突に言い出すのかというと、
詩というのはもっとポジティブで明るいもの、
世界に対する新しい発見や瑞々しい驚きを、
そのまま素直に表現するものであって良いのではないかと
考えるからだ。
自分の内面をことさらに深く掘り下げて、
半ば強制的に「告白」させられることだけが詩ではないと
愚考するからだ。
それは近代文学(「日本的近代文学」か?)によって
強制させられたある種の自白であり、
強制された自白ほど信用できないものはない。

森は真理に満ちている。
世界は驚きに満ちている。
その驚きを理論によって体系化するのがサイエンスであり、
感性によって表現するのがポエジーであるとするならば、
科学に感性があっても良いし、
詩に理論があっても良いのではないかと思う。

大山

2008/07/12(土) 23:57:46 [【シリーズ】山手線から三駅目]

かなりの急角度でカーブしたプラットホームに降りて
駅の南口に出ると、
親しみやすい商店街の雑踏が迎えてくれる。
駅前ではこの暑い中に動物の着ぐるみを被って、
どこかの店の店員がチラシを配っている。

アーケードに覆われた商店街は存外に長くて奥行きがある。
ハッピーロードと言うらしい。
屋根のおかげで、視界から電線が排除されているのは、
景観形成上好ましい。
通りには昔ながらの八百屋や中華料理屋と、
ファストフードや100均ショップが上手い具合に混在して、
活気に溢れている。
そしてママチャリの群れ。
気取らない生活の匂いが濃厚に漂う。
また商店街の並びには、
時々狭い路地が控え目な佇まいで口を空けていて、
その奥には、昭和の香りを漂わせる
一杯飲み屋やスナックの古びた看板が待っている。

商店街を一台のトラックがのろのろと通る。
そのせいで人と自転車の流れが遮られ、
時ならぬ大渋滞を引き起こしている。
まったくこんな所を通るからだと、
オバチャンがそばに居た私に向って愚痴を言う。
この道にはいつもこんな車が通るのかと聞いたら、
いやそんな事はないと答える。

鉄道が高架化されておらず
いまも踏切が残っている所が、
地理的には武蔵野大地の上、
山手に位置する東武西武沿線の町並みを、
ことさらに下町っぽいものに見せている。
かの京成ですら、
新三河島や千住大橋の辺りは高架化しているというのに。
この大山も、
地下鉄駅と地上駅の違いはあるとは言え、
小竹向原とは余りにも異なる街の風景が広がっている。
同じ「池袋から3駅目」であるにも関わらず。

ディスカウントストアの店頭で、
麦藁帽子が安売りされているのを見つける。
980円。
安い。
頑丈そうで、実用的っぽい。
麦藁帽子は以前から探していたが、
ファッション性重視のものばかりで、
中々満足するものが見つからなかった所だ。
かぶってみると丁度良い。
前側の部分がやや広く作られているそのツバに、
ホームを通過する急行電車が起こした風が当たると、
目深にかぶった帽子が少し後ろにずり下がる。
電車が二本通過したその後で、
ようやく各駅停車がやって来る。

瀕死のカラス

2008/07/10(木) 00:30:48 [【07-08】雑司ヶ谷下水道水難事件]

どこかに傷を負ったらしい一羽のカラスが、
歩道の上に仰向けになって転がっている。
可哀そうに思って手を延べると、
を限界まで開き必死に首をねじってつついて来る。
頭上の電線には仲間達が集まり、
低空飛行と鳴き声で威嚇を繰り返す。
ついに何も出来ずにそのままに現場を立ち去る。

次にその道を通った時には、カラス達の姿は悉く消えている。

【ノート】三行詩の構成について

2008/07/09(水) 01:41:53 [【思索】詩作ノート]

起承転結の構成がはっきりしている四行詩の場合と違って、
三行詩は全体がより緊密な作品、
悪く言えば寸詰まりの感じになることが多いように思う。
物事を3つの部分に分けて構成する場合は
「序論・本論・結論」とか「序破急」(能の用語らしい)という風に
作成するらしいのだけど、私が作って来た作品は
これには余り当てはまらない。

私の作品の構成を振り返って見てみると、
「平平急」「坦々急」と言った感じになるのではないか。
(そんな用語はないので、今勝手に作ったのだが)
つまり、前の二文で淡々と情景状況を描写し、
ワンテンポ置いて最後の一行に、
自分の主観自意識を投影した、
短い、いささかセンチメンタルに過ぎるセンテンスを持ってくる。
前の二文には、特に上下関係や重要度の違いはない。
最後の一行は、起承転結の「転結」が一体となったものとも
言えないことはないが、やはりそれとも違う気がする。

また前の二文は、均質に流れる時間を表現し、
最後の一文は、瞬間的な美を表現している
(つもりである)。

何故かはわからないが、このパターンの作品は、
私にとっては創るのが楽なのである。
精神的に苦しくて、余り詩を作る余裕がないような時でも
エネルギーを使わずに作成することが出来る。
だがワンパターンに陥りやすいことも確かである。
この構成をある種の定型として、定着させる所まで
洗練させる事が出来たらと思うのだが、
今の所なかなか果たせないでいる。

【セレクション】地下鉄短歌選

2008/07/08(火) 00:25:47 [【セレクション】地下鉄短歌選]

当ブログ内の短歌のうち、
地下鉄路線を直接詠みこんだ作品を集めてあります。
適宜拡張・追加していきます。


銀座線

東洋の地下鉄の始祖銀座線
変わる事無き意志のオレンジ


丸ノ内線

光差す
丸の内線
茗荷谷
武蔵野台地の
起伏覚ゆる



永遠に閉じる事無き赤の円
丸ノ内線今日も蛇行す



神田川武蔵野台地の崖下行き
丸ノ内線水面を走る



神田川聖橋より眺めれば
丸ノ内線水面を滑る


東西線

東西線千葉より来たる青き波
うねりつつ添うカナリアの友


有楽町線

本邦の枢要の地を駆け抜ける
金の稲妻有楽町線



防衛庁首相官邸警視庁
斜めに結ぶゴールドの糸



ようやっと長き地中の旅終えて
運河望める新木場の空



新木場の空
唯一の
許されし
有楽町線東京の空


半蔵門線

紫衣まとい今も忍者の東京の地下を疾駆す
半蔵門線



新しき世紀になってようやっと隅田川くぐる呑気な伊賀者


副都心線

黄昏のメトロポリスを走り出す
最後のランナー副都心線



雑司ヶ谷改名都電に押しつける
その地下鉄の横暴につき


大江戸線

東京のヨルムンガンド大江戸線
余った尻尾が練馬に延びる



「大江戸」の名を冠したるルビー色
平成生まれの平成育ち



「大江戸」の名を僭称す6の字の
中野も練馬も江戸じゃないだろ



東京地下鉄全般

都心部の
谷間を渡る時だけは、
東京地下鉄青空の下

丸ノ内線三首

2008/07/08(火) 00:11:02 [【07-08】雑司ヶ谷下水道水難事件]

永遠に閉じる事無き赤の円
丸ノ内線今日も蛇行す



神田川武蔵野台地の崖下行き
丸ノ内線水面を走る



神田川聖橋より眺めれば
丸ノ内線水面を滑る

【ノート】四行詩の構成について

2008/07/07(月) 00:27:54 [【思索】詩作ノート]

四行詩のそれぞれの行は、
基本的には起・承・転・結に対応しているが、
その表現方法は一様ではない。

漢詩絶句では、
一行目から四行目までが全て同じ長さで構成されている。
一行目の起と二行目の承、
三行目の転と四行目の結が、
それぞれ対句的な表現となって、
視覚上でも幾何学的な美しさを見せている。

ペルシア四行詩ルバーイイもまた
独自の音韻体系で構成されているらしいが、
ペルシア語は全くかじったことがないので
オマル・ハイヤーム『ルバイヤート小川亮作訳の解説による
情報しかないのが残念である。

いしいひさいち以降の4コママンガが必ずしも
起・承・転・結の構成に従っていないように、
四行詩の構成も、様々なバリエーションが在りうるのだと思う。
色々と考えてみたい。

天道虫の七月

2008/07/06(日) 00:10:09 [【07-08】雑司ヶ谷下水道水難事件]

七月の晴天に干した布団を取り込むと、
珍しい模様の小さな天道虫がついて来た。
太陽の虫の名の示す通り、
突き刺さる夏の陽光がもたらした客人である。
調べてみると、ヒメカメノコテントウという種類だった。
橙と黒によって描かれた亀の甲の図柄が、
本格的な暑気の到来を告げるかのようだ。

地震・雷・火事・親父

2008/07/05(土) 00:20:01 [詩文・俳文]


中国四川大地震岩手宮城内陸地震と、
最近大規模な地震が相次いでいる。

地震火事親父

タイタンラムウイフリート……
……オーディン?????

しかし良く考えたら、こいつら全員
オヤジじゃないか?

しかも「召喚獣」なのに
「獣」ですらないし。
ただの人型ヒューマノイドだ。

つまる所我々は

2008/07/04(金) 00:34:51 [詩文・俳文]

つまる所我々は、
内面的には自我自意識囚人であり
客観状況においては世界史上の囚人であるのだ
この島国牢獄であり、流刑地なのだ
ただこの牢獄は、世界で最も安全で、清潔で、豊かで、
人々は皆謙譲で礼儀正しく、
社会インフラは高度に整備・維持され、
交通機関は時間通り正確に動き、
水清く、暖かく、モノが溢れてコンビニエントなので、
異なる言語、異なる宗教、異なる皮膚の色をした人々が、
図々しくも世界中から押し寄せるのだ。
そうして我々は時にそのことを誇りにも思い、
また時に苛立たしくも感じるのだ。

【メモ】漂泊民でありうるという贅沢

2008/07/03(木) 01:14:37 [未分類]


漂泊乞食世捨て人に憧れを抱いて来た。
全く何も持たない、所有しない「無一物」の存在として
ただ路傍にあって、
そのような自分を認めてくれる誰かがいつか現れるその時こそが、
人間存在にとってもっとも幸福な瞬間ではないのかという
理想もしくは夢想があったからである。
つまり、金(経済的価値)や肩書(社会的価値)や、
ルックス(美的価値)ではなく、
精神的価値を承認される。
まあ、社会的価値美的価値も、金によって買えるものなのだが。

精神的価値こそが、一人の人間の構成要素としては、
もっとも尊いものであるという考えを、
この現代社会においても、完全に捨て去ってはならない。
金と交換できない価値が人類社会には存在する事を、
誰かが身を持って証明しなければならない。

個人としての内面的完成の追及は、どこまで可能なのか?

しかし、漂泊乞食世捨て人というのも、
実はある種の社会的贅沢なのではないかとも思う。
フリータウンヨハネスブルク南米の低安全都市では、
そのような実存を選択する事自体が、そもそも不可能である。
路上で無防備に乞食をしていれば、
即座に人間狩りに合い、寄ってたかって惨殺されてしまうだろう。
またモンゴロイドの私にとっては、
東ドイツの田舎や、アメリカのディープサウス諸州や、
オーストラリアの諸都市でもそれは不可能なことではないのか?
ネオナチやそれと同様の思想を抱く人種差別主義者によって、
やはり目の敵にされ、リンチに合うだろう。

何も持たざる存在として、自らの存在をただ世界に投げ出してみるという
思想的・精神的な実験が可能なのは、
実はこの現代日本の治安が高度に保たれているという
前提条件に拠るものなのである。
その事はもちろん、
先進国としての日本の成功、
相対的に見て安定性の高い社会、
個人の内面について、
多少なりとも抽象的に物事を考える意欲及び能力を可能にした
比較的高度な教育システムなどなどの、
諸々の条件が、さらにその背後にある。

考えてみれば、世界の大部分の人間は、
自身がただ生きるために金と権力を所有し続けなければならない。
好き嫌いに関わらずそのための闘争を継続しなければならない。
漂泊民・乞食世捨て人を意識的・自覚的に選択しうるというのは、
この過酷な人類史において、多分に高度な贅沢に属する事柄なのである。
どのような世捨て人であっても、
そのような歴史的・環境的要因からは、完全に自由には成り得ない。
世捨て人もまた、歴史的・社会的に拘束された存在であり、
世捨て人イデオロギー」(そんなイデオロギーがあるのかどうかはわからないが)も、
他の全てのイデオロギーと同じように、
存在被拘束性を負っている。

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