没義道に:もぎどうに。情け知らずに。
日常言語と詩的言語の境界についてさらに考える。
寺田寅彦に「丸善と三越」という高名な随筆がある。その本文の知的な端正さもむろん大いに味わうべきだが、それ以前に、この「丸善と三越」というタイトル自体が一篇の短詩ではないかと私は以前より感じて来た。「丸善」という固有名詞からは、戦前の日本社会のモダニズムを支えた教養主義の香りが漂い、「三越」からは同様に近代日本の大都市に成立した消費社会の華やかさが伝わってくる。そしてこの両者を組み合わせて「丸善と三越」としたところに、明治以来の日本社会の近代化プロジェクトの、もっとも明るく美しい側面の、その正のイメージが端的に表現されていると思うのだ。
もちろん以上のような解釈は、「丸善」とか「三越」とかいう固有名詞に対して、ある程度の歴史的知識があることを前提としたものである。詩というのは、個人の内面を言葉によって表現するものだと言うのが、多くの人々の共通認識であろうが、その個人の内面というのも畢竟歴史的に形成された存在であり、詩的な世界に史的な文脈を注入することは、表現の上では決してマイナスにはならない。それは表現においてより豊かな多様性をもたらすものになるだろう。
「丸善と三越」は当然ながら「ブックオフとファミリーマート」とは伝えうるイメージが全く違う。「ブックオフとファミリーマート」が詩にならないというのではない。「ブックオフとファミリーマート」が読み手に伝えるものはおそらく「平成期、あるいは21世紀の日本社会における均質化・同質化されつくした消費空間・都市空間」といったようなものになるだろう。そこにもまた、ある種の詩的なものを見出す事が可能である。
世界のあらゆる存在に、詩的なものの種子は内在されている。極端に言えば、この世界に詩的でないものなどは存在しないのではないか? ただそれをどのように引き出して、言葉という表現手段(メディア)を用いて作品世界を作っていくか、その作品世界がどこまで読者に伝わるイメージを構築しうるかというのは、やはり創作者の感性と技術とにかかっているのだろう。
寺田寅彦に「丸善と三越」という高名な随筆がある。その本文の知的な端正さもむろん大いに味わうべきだが、それ以前に、この「丸善と三越」というタイトル自体が一篇の短詩ではないかと私は以前より感じて来た。「丸善」という固有名詞からは、戦前の日本社会のモダニズムを支えた教養主義の香りが漂い、「三越」からは同様に近代日本の大都市に成立した消費社会の華やかさが伝わってくる。そしてこの両者を組み合わせて「丸善と三越」としたところに、明治以来の日本社会の近代化プロジェクトの、もっとも明るく美しい側面の、その正のイメージが端的に表現されていると思うのだ。
もちろん以上のような解釈は、「丸善」とか「三越」とかいう固有名詞に対して、ある程度の歴史的知識があることを前提としたものである。詩というのは、個人の内面を言葉によって表現するものだと言うのが、多くの人々の共通認識であろうが、その個人の内面というのも畢竟歴史的に形成された存在であり、詩的な世界に史的な文脈を注入することは、表現の上では決してマイナスにはならない。それは表現においてより豊かな多様性をもたらすものになるだろう。
「丸善と三越」は当然ながら「ブックオフとファミリーマート」とは伝えうるイメージが全く違う。「ブックオフとファミリーマート」が詩にならないというのではない。「ブックオフとファミリーマート」が読み手に伝えるものはおそらく「平成期、あるいは21世紀の日本社会における均質化・同質化されつくした消費空間・都市空間」といったようなものになるだろう。そこにもまた、ある種の詩的なものを見出す事が可能である。
世界のあらゆる存在に、詩的なものの種子は内在されている。極端に言えば、この世界に詩的でないものなどは存在しないのではないか? ただそれをどのように引き出して、言葉という表現手段(メディア)を用いて作品世界を作っていくか、その作品世界がどこまで読者に伝わるイメージを構築しうるかというのは、やはり創作者の感性と技術とにかかっているのだろう。
脱獄囚(ケビン・コスナー)がたまたま押し入った民家から少年をさらって、
人質として逃避行を続けるが、
新興宗教を盲信する家庭に育った少年の不幸に
自身の少年時代を重ね合わせて同情するうちに
二人の間に奇妙な心の交流が生まれる。
一種のロードムービー。
北野映画の「菊次郎の夏」に少し似ている。
また、狂信的で閉鎖的な家庭に育った少年というのは、
スティーブン・キングの『キャリー』なども連想させる。
しかし何より最も似ていると思ったのは、
幻の名作『ペーパー・ムーン』である。
脱獄囚と少年が逃げ回るのはテキサスの大地。
ロードムービー的な映画は、
広大なアメリカの大地が舞台だとやっぱり様になる。
またそれと同時に、何かあったらとにかく逃げれば良いという発想は、
この広大な大地という地理的条件によって生み出されたものであり、
また暴力と虐殺でインディアンの土地を奪い取って成立した社会であるから、
土地に愛着が全くないという歴史的な条件にもよるものだろう。
広大な大地を逃げ回るというのは、
『ハックルベリィ・フィンの冒険』とか
『怒りの葡萄』とかの
いわゆる正統なアメリカ文学にも共通のモチーフだ。
タイトルの「パーフェクト・ワールド」は、
脱獄囚の父親が住むアラスカの事。
劇中で脱獄囚は繰り返し、父の住むアラスカに行きたいと口走る。
(そのくせメキシコ国境に向けて逃げているのだが。)
つまりアラスカは彼にとっての約束の地、
どこか遠い世界にある辿り着けない理想郷であるのだが、
アラスカを理想郷と見る文化的コードが、
アメリカ人に一般的なものであるのかどうかは知らない。
(私は初めて聞いた。)
しかしこれも、メイフラワー号以来、
アメリカ人が延々と抱いている観念なのかも知れない。
つまりどこかに約束の地があって、
そこに行けば今までの不幸を全て振り払って幸せになれると。
もちろん、勝手に押しかけられて占拠された側の
ネイティブアメリカンにとっては迷惑きわまりない話である。
そしてメイフラワー号に乗っていたのは、
当時のイングランドにおけるカルト宗教の信者だったわけで、
ここで狂信者のモチーフと約束の地への脱出のモチーフは
めでたく結びつくわけだ。
もちろん、元ネタは聖書である。
脱獄囚のケビン・コスナーの吹き替えは津嘉山正種。
アニメ版の『アカギ』を見て以降、
この人の声は鷲巣巌にしか聞こえなくなってしまった。
この脱獄囚を追う刑事(クリント・イーストウッド)は、
かつて脱獄囚が少年だった頃に
彼が人生を踏み外すきっかけを作ったという因縁があり、
人質として逃避行を続けるが、
新興宗教を盲信する家庭に育った少年の不幸に
自身の少年時代を重ね合わせて同情するうちに
二人の間に奇妙な心の交流が生まれる。
一種のロードムービー。
北野映画の「菊次郎の夏」に少し似ている。
また、狂信的で閉鎖的な家庭に育った少年というのは、
スティーブン・キングの『キャリー』なども連想させる。
しかし何より最も似ていると思ったのは、
幻の名作『ペーパー・ムーン』である。
脱獄囚と少年が逃げ回るのはテキサスの大地。
ロードムービー的な映画は、
広大なアメリカの大地が舞台だとやっぱり様になる。
またそれと同時に、何かあったらとにかく逃げれば良いという発想は、
この広大な大地という地理的条件によって生み出されたものであり、
また暴力と虐殺でインディアンの土地を奪い取って成立した社会であるから、
土地に愛着が全くないという歴史的な条件にもよるものだろう。
広大な大地を逃げ回るというのは、
『ハックルベリィ・フィンの冒険』とか
『怒りの葡萄』とかの
いわゆる正統なアメリカ文学にも共通のモチーフだ。
タイトルの「パーフェクト・ワールド」は、
脱獄囚の父親が住むアラスカの事。
劇中で脱獄囚は繰り返し、父の住むアラスカに行きたいと口走る。
(そのくせメキシコ国境に向けて逃げているのだが。)
つまりアラスカは彼にとっての約束の地、
どこか遠い世界にある辿り着けない理想郷であるのだが、
アラスカを理想郷と見る文化的コードが、
アメリカ人に一般的なものであるのかどうかは知らない。
(私は初めて聞いた。)
しかしこれも、メイフラワー号以来、
アメリカ人が延々と抱いている観念なのかも知れない。
つまりどこかに約束の地があって、
そこに行けば今までの不幸を全て振り払って幸せになれると。
もちろん、勝手に押しかけられて占拠された側の
ネイティブアメリカンにとっては迷惑きわまりない話である。
そしてメイフラワー号に乗っていたのは、
当時のイングランドにおけるカルト宗教の信者だったわけで、
ここで狂信者のモチーフと約束の地への脱出のモチーフは
めでたく結びつくわけだ。
もちろん、元ネタは聖書である。
脱獄囚のケビン・コスナーの吹き替えは津嘉山正種。
アニメ版の『アカギ』を見て以降、
この人の声は鷲巣巌にしか聞こえなくなってしまった。
この脱獄囚を追う刑事(クリント・イーストウッド)は、
かつて脱獄囚が少年だった頃に
彼が人生を踏み外すきっかけを作ったという因縁があり、
自由律俳句運動の幻視した、無造作に吐き捨てた言葉がそのまま一遍の短詩になるような境地は、詩を創作するものにとって一つの理想的な在り方であろう。しかし現実にはそれは難しい。その余りにも断片的な言葉は、往々にして単体で詩の世界を表現、構成することが難しく、しばしば周辺情報、コンテクストに依存することになるからである。(山頭火が詞言葉を好んで用いたことを想起されたい。)この問題は、また後日改めて考える必要がある。
このノートではそれとはまた別の問題についてメモを取る。自由律俳句の中にすら、おそらくはその作り手すら無意識のうちに、しばしば定律の断片が観察される。以下、それを列記してみる。
1.五七体。俳句で言えば上・中の部分だけを切り取った形になる。
2.七五体。俳句で言えば中・下の部分だけを切り取った形になる
3.七七体。短歌でいう下の句に当たる。
このように並べてみると、いったい何が俳句で何が詩なのか、わからなくなってしまう。いや、これらの作品が詩ではないと言うのではなく、詩というのはむしろどこにでも遍在しているもので、それ故に詩であるものと詩でないものを分けて考えるのは困難なのではないかということである。さらに言えば、日常語の中に、五七・七五・七七に当てはまるものがあれば、それは俳句や短歌になりうる、少なくともその萌芽にはなりうるということではないか?
しかし、そもそも俳句や短歌の字数規定自体が、根源的には無根拠なものなのではあるが。
このノートではそれとはまた別の問題についてメモを取る。自由律俳句の中にすら、おそらくはその作り手すら無意識のうちに、しばしば定律の断片が観察される。以下、それを列記してみる。
1.五七体。俳句で言えば上・中の部分だけを切り取った形になる。
鉄鉢の中にも霰(山頭火)
踏みわける萩よすすきよ(山頭火)
笠をぬぎしみじみとぬれ(山頭火)
生卵こつくり飲んだ(放哉)
一日の終りの雀(放哉)
2.七五体。俳句で言えば中・下の部分だけを切り取った形になる
椿ひらいて墓がある(山頭火)
朝は涼しい茗荷の子(山頭火)
木の葉ふるふる野糞する(山頭火)
一人の道が暮れて来た(放哉)
火の無い火鉢に手をかざし(放哉)
3.七七体。短歌でいう下の句に当たる。
いちりん挿しの椿いちりん(山頭火)
すずめをどるやたんぽぽちるや(山頭火)
こころすなほに御飯がふいた(山頭火)
蟇あそこにも一つ動けり(放哉)
落書がなくてお寺の白壁(放哉)
茄子もいできてぎしぎし洗う(放哉)
このように並べてみると、いったい何が俳句で何が詩なのか、わからなくなってしまう。いや、これらの作品が詩ではないと言うのではなく、詩というのはむしろどこにでも遍在しているもので、それ故に詩であるものと詩でないものを分けて考えるのは困難なのではないかということである。さらに言えば、日常語の中に、五七・七五・七七に当てはまるものがあれば、それは俳句や短歌になりうる、少なくともその萌芽にはなりうるということではないか?
しかし、そもそも俳句や短歌の字数規定自体が、根源的には無根拠なものなのではあるが。
Amazonで買った鳥の巣箱がクロネコヤマトで届く。
新潟の業者のもので、
五千円ぐらいするものが千円になっていたのだが、
多分元々の価格がぼったくりなのだろう。
六角形の、屋根付きの形状で、
屋根の上からは取り付け用の紐が出ている。
取説を見るとメイドインチャイナで、
柳杉という聞いたことの無い木の流木から作られているというが、
どこの川のものだろうか?
※
大陸の大河流れし流木の
流れ流れて鳥の巣となる
※
大陸の大河流れし
ありし日を思い出さんか
小箱となりても
※
中国の大河の流木
Amazonで売られ
日本の庭に飾られ
※
日曜大工用の錐など常備していないので、
マイナスドライバーで強引に水抜き用の穴をこじ開ける。
その後、プラスドライバーで穴を広げる。
十一月に植木屋が来てすっかり枝を落としていった
マンションの庭の裸木に取り付ける。
六角形の形状が作業を無駄にやりにくいものにしてくれたが、
上から紐で吊るして、
下の部分を揺れないように針金で木の幹に巻きつけると、
存外に堅固な感じになった。
今日吹いたとても強い北風にも全くびくともしなかったので、
大抵の衝撃にはまあ耐えうるだろう。
※
大陸の流木
本意か不本意か?
島国の空に吊るされしこと
※
大陸の大河の流木
大海に達せざること
無念に思うか
新潟の業者のもので、
五千円ぐらいするものが千円になっていたのだが、
多分元々の価格がぼったくりなのだろう。
六角形の、屋根付きの形状で、
屋根の上からは取り付け用の紐が出ている。
取説を見るとメイドインチャイナで、
柳杉という聞いたことの無い木の流木から作られているというが、
どこの川のものだろうか?
※
大陸の大河流れし流木の
流れ流れて鳥の巣となる
※
大陸の大河流れし
ありし日を思い出さんか
小箱となりても
※
中国の大河の流木
Amazonで売られ
日本の庭に飾られ
※
日曜大工用の錐など常備していないので、
マイナスドライバーで強引に水抜き用の穴をこじ開ける。
その後、プラスドライバーで穴を広げる。
十一月に植木屋が来てすっかり枝を落としていった
マンションの庭の裸木に取り付ける。
六角形の形状が作業を無駄にやりにくいものにしてくれたが、
上から紐で吊るして、
下の部分を揺れないように針金で木の幹に巻きつけると、
存外に堅固な感じになった。
今日吹いたとても強い北風にも全くびくともしなかったので、
大抵の衝撃にはまあ耐えうるだろう。
※
大陸の流木
本意か不本意か?
島国の空に吊るされしこと
※
大陸の大河の流木
大海に達せざること
無念に思うか
鶯谷駅の北口にある周辺地図を眺めていた和服姿の年配の女性が、同じくその地図を覗きこもうとする私に話しかけてくる。書道博物館を探しているらしい。わからないと答えると、駅員を呼んで尋ねていた。
ついでに私も、その駅員に子規庵の場所を聞く。これらの施設の場所を聞かれることは結構多いらしく、配布用に予め用意してある小さな地図を渡される。山手線その他のレールを跨ぐ言問通りの陸橋下をくぐって行くルートが近道のようだ。
今日は子規が敬愛していた与謝蕪村の忌日で、子規庵の庭ではボランティアが風呂吹き大根と、子規が好んだというココアをふるまっている。
※
冬の日にメジロ寛ぐ子規の庭
※
蕪村忌も羽虫舞うほど暖かく
※
屋内では子規に関連した諸々の展示の他に、その臨終の部屋では、愛用の文机などが再現されている。カリエスで足を曲げることが出来なくなった子規のために、立膝を入れる穴が開けられた特注のものだ。実際にその前に座って、子規と同じ姿勢で庭を見て下さいと案内のボランティアの人に勧められる。柴田宵曲の評伝の記述通りに、ガラス戸から庭を眺めることが出来る。
※
干からびし冬の糸瓜を照らす陽の柔らかに差す子規の硝子戸
※
しかし、鳥が運んで来た種子のために庭の植生は当時とは全く異なってしまっていると言う。もちろん、周囲の建物の様子も違うだろう。ただ、子規が余り好まなかったという鉄道の音が聴こえるところは、明治の頃から変わらないようだ。
※
ラブホテル借景となりし子規庵のされど澄みたる冬の青空
ついでに私も、その駅員に子規庵の場所を聞く。これらの施設の場所を聞かれることは結構多いらしく、配布用に予め用意してある小さな地図を渡される。山手線その他のレールを跨ぐ言問通りの陸橋下をくぐって行くルートが近道のようだ。
今日は子規が敬愛していた与謝蕪村の忌日で、子規庵の庭ではボランティアが風呂吹き大根と、子規が好んだというココアをふるまっている。
※
冬の日にメジロ寛ぐ子規の庭
※
蕪村忌も羽虫舞うほど暖かく
※
屋内では子規に関連した諸々の展示の他に、その臨終の部屋では、愛用の文机などが再現されている。カリエスで足を曲げることが出来なくなった子規のために、立膝を入れる穴が開けられた特注のものだ。実際にその前に座って、子規と同じ姿勢で庭を見て下さいと案内のボランティアの人に勧められる。柴田宵曲の評伝の記述通りに、ガラス戸から庭を眺めることが出来る。
※
干からびし冬の糸瓜を照らす陽の柔らかに差す子規の硝子戸
※
しかし、鳥が運んで来た種子のために庭の植生は当時とは全く異なってしまっていると言う。もちろん、周囲の建物の様子も違うだろう。ただ、子規が余り好まなかったという鉄道の音が聴こえるところは、明治の頃から変わらないようだ。
※
ラブホテル借景となりし子規庵のされど澄みたる冬の青空
JR渋谷駅と、
京王井の頭線渋谷駅を結ぶマークシティ内の連絡通路に、
岡本太郎の壁画「明日の神話」が常設されることとなった。
核戦争の悲劇を描いたものだと言うが、
高名な前衛芸術家の手になる原色を多用した巨大な壁画を
ほとんどの人は気にも留めずに通り過ぎる。
時折ケータイで写真を撮る人が居る程度だ。
絵の正面にガードマンが一人仁王立ちに立っている。
渋谷という街には、どんなに異様な、破壊的な表現も
吸収して無効化してしまう奇妙な負の力が働いているような気がする。
街全体に恒常的にドレインもしくはスリップがかかっているとでも
表現するべきか?
だからこの街を歩いている人は、
在る意味で皆ゾンビなのかも知れない。
画面中央に描かれている、
球体から棘のようなものが四方に突き出した物体は、
何だか「防衛システム」に似ている。
※
芸術はスターバスター
※
もしかしてゼロ年代のこの街で「SAVE THE WORLD」聴こえるかもね
※
平成二十年の渋谷を歩く女子高生達は、
最早誰一人としてルーズソックスをはいていない。
その多くは普通の黒髪だ。
コギャルという生き物も
だいぶ以前に、何時の間にか、核戦争を待つこともなく、既に、絶滅したのであろう。
京王井の頭線渋谷駅を結ぶマークシティ内の連絡通路に、
岡本太郎の壁画「明日の神話」が常設されることとなった。
核戦争の悲劇を描いたものだと言うが、
高名な前衛芸術家の手になる原色を多用した巨大な壁画を
ほとんどの人は気にも留めずに通り過ぎる。
時折ケータイで写真を撮る人が居る程度だ。
絵の正面にガードマンが一人仁王立ちに立っている。
渋谷という街には、どんなに異様な、破壊的な表現も
吸収して無効化してしまう奇妙な負の力が働いているような気がする。
街全体に恒常的にドレインもしくはスリップがかかっているとでも
表現するべきか?
だからこの街を歩いている人は、
在る意味で皆ゾンビなのかも知れない。
画面中央に描かれている、
球体から棘のようなものが四方に突き出した物体は、
何だか「防衛システム」に似ている。
※
芸術はスターバスター
※
もしかしてゼロ年代のこの街で「SAVE THE WORLD」聴こえるかもね
※
平成二十年の渋谷を歩く女子高生達は、
最早誰一人としてルーズソックスをはいていない。
その多くは普通の黒髪だ。
コギャルという生き物も
だいぶ以前に、何時の間にか、核戦争を待つこともなく、既に、絶滅したのであろう。
新宿以西の丸ノ内線は青梅街道の地下を走っているが、
その青梅街道と中野通りの交差点付近に設けられた駅が
新中野だ。
JRの中野から見て、南側にあたる。
幹線道路に沿った地下鉄駅に共通のことだが、
この駅自体は、周囲の景観にはほぼ何も影響を与えていない。
地上に出ると、黄金に染まった銀杏の並木が迎えてくれるが、
基本的には、何のメルクマールもない、
雑居ビルと集合住宅が混在する平凡な市街地の風景だ。
※
江戸時代の川越街道がそのまま商店街として残っている大山や、
幹線道路となっている現在の中山道と、
商店街になっている旧中山道が棲み分けを行っている
板橋区役所前とは異なり、
新中野周辺は青梅街道がそのまま現代の自動車道になっているために、
このような景観になっているのだろう。
新宿側の交差点から南に向かう一車線道路の両側に、
商店街が伸びている。
鍋屋横丁、略称鍋横というらしい。
何やら由緒のある地名だが、その由来はわからない。
そのような地名が残されているのだったら「新中野」などと名付けずに、
それを駅名にすれば良いのにと思うのだが。
鍋屋横丁の奥には、やはりそれなりに歴史的な出自がありそうな、
十貫坂上という地名もある。
もったいない。
鍋屋横丁の蕎麦屋の店内では、
バンドマンらしき中年のカップルが、
今回のチケットは何枚売れたかとか、
どこのライブハウスが良いとかという、
いかにもギョーカイ人っぽい会話をしている。
この辺は、中央線沿線サブカル文化圏の影響を色濃く感じる。
店員によるとこの蕎麦屋は、神田「まつや」の直系であるという。
その隣には、つけ麺で有名な池袋大勝軒を名乗ったラーメン屋があるが、
これもその直系だろうか?
※
「東西南北中武蔵(美園)」という言葉がある。
これはJR浦和駅の周辺の駅の名前を揶揄したもので、
元々何も無い所に街を作って駅を作ったので、
命名に窮して何の個性もない無機質な駅名ばかりが並ぶことになったのを
指摘したものである。
類似の言葉に、千葉県の船橋駅周辺を揶揄した
「東西新法典京成」がある。
これと同様に、中野近辺の駅名を揶揄するのなら
「東新坂上富士見新橋」とでもなるのだろうか?
もちろん現在の中野区は、
埼玉の浦和や千葉の船橋といった郊外とは異なる立地にあるのだが、
しかしこれらの駅名を見ると、
中野もまた、元々は何もなかった場所なのだなあということが感じられる。
そう言えば町名を見ても「中央」とか「本町」とかばかりだ。
江戸から姿を変えた近代都市としての東京において、
中野辺りは最も早く登場した郊外的空間なのかも知れない。
(いや、そもそも中野の「宗主国」である新宿こそが、
東京府の最初の郊外的空間なのかも。
「東西南西武西口三丁目」……。)
※
青梅街道に沿ってギャラリーが数軒あり、
女子美大生の作品などを展示しているが、
これもやはり中央線文化圏の影響だろうか?
この地域から北は、中野に向けての下り坂、
東と南はおそらく神田川に向かってのやはり下り坂になっている。
つまりこの街は、そこそこの高台に位置している。
その狭い路地が錯綜した住宅街を、
電動自転車に牽引されたクロネコヤマトの緑色のリヤカーが行く。
豆腐屋の人力リヤカーの人も
冬至の近い冬の早い夕暮れに笛を吹いて
客を集め始める。
その青梅街道と中野通りの交差点付近に設けられた駅が
新中野だ。
JRの中野から見て、南側にあたる。
幹線道路に沿った地下鉄駅に共通のことだが、
この駅自体は、周囲の景観にはほぼ何も影響を与えていない。
地上に出ると、黄金に染まった銀杏の並木が迎えてくれるが、
基本的には、何のメルクマールもない、
雑居ビルと集合住宅が混在する平凡な市街地の風景だ。
※
江戸時代の川越街道がそのまま商店街として残っている大山や、
幹線道路となっている現在の中山道と、
商店街になっている旧中山道が棲み分けを行っている
板橋区役所前とは異なり、
新中野周辺は青梅街道がそのまま現代の自動車道になっているために、
このような景観になっているのだろう。
新宿側の交差点から南に向かう一車線道路の両側に、
商店街が伸びている。
鍋屋横丁、略称鍋横というらしい。
何やら由緒のある地名だが、その由来はわからない。
そのような地名が残されているのだったら「新中野」などと名付けずに、
それを駅名にすれば良いのにと思うのだが。
鍋屋横丁の奥には、やはりそれなりに歴史的な出自がありそうな、
十貫坂上という地名もある。
もったいない。
鍋屋横丁の蕎麦屋の店内では、
バンドマンらしき中年のカップルが、
今回のチケットは何枚売れたかとか、
どこのライブハウスが良いとかという、
いかにもギョーカイ人っぽい会話をしている。
この辺は、中央線沿線サブカル文化圏の影響を色濃く感じる。
店員によるとこの蕎麦屋は、神田「まつや」の直系であるという。
その隣には、つけ麺で有名な池袋大勝軒を名乗ったラーメン屋があるが、
これもその直系だろうか?
※
「東西南北中武蔵(美園)」という言葉がある。
これはJR浦和駅の周辺の駅の名前を揶揄したもので、
元々何も無い所に街を作って駅を作ったので、
命名に窮して何の個性もない無機質な駅名ばかりが並ぶことになったのを
指摘したものである。
類似の言葉に、千葉県の船橋駅周辺を揶揄した
「東西新法典京成」がある。
これと同様に、中野近辺の駅名を揶揄するのなら
「東新坂上富士見新橋」とでもなるのだろうか?
もちろん現在の中野区は、
埼玉の浦和や千葉の船橋といった郊外とは異なる立地にあるのだが、
しかしこれらの駅名を見ると、
中野もまた、元々は何もなかった場所なのだなあということが感じられる。
そう言えば町名を見ても「中央」とか「本町」とかばかりだ。
江戸から姿を変えた近代都市としての東京において、
中野辺りは最も早く登場した郊外的空間なのかも知れない。
(いや、そもそも中野の「宗主国」である新宿こそが、
東京府の最初の郊外的空間なのかも。
「東西南西武西口三丁目」……。)
※
青梅街道に沿ってギャラリーが数軒あり、
女子美大生の作品などを展示しているが、
これもやはり中央線文化圏の影響だろうか?
この地域から北は、中野に向けての下り坂、
東と南はおそらく神田川に向かってのやはり下り坂になっている。
つまりこの街は、そこそこの高台に位置している。
その狭い路地が錯綜した住宅街を、
電動自転車に牽引されたクロネコヤマトの緑色のリヤカーが行く。
豆腐屋の人力リヤカーの人も
冬至の近い冬の早い夕暮れに笛を吹いて
客を集め始める。
日本の素朴美、要するにヘタウマアートの歴史を通覧する企画展。禅画や南画などから、近代は漱石の絵や棟方志功の版画まで結構幅広い。肩肘の張らない温雅な作品群は、確かに見る者を和ませる。このヘタウマの系譜は、現代のある種の漫画家にまで繋がっていると私は思うのだが、今回のこの展示では、そこまではフォローされていない。また別の機会に、そういった視点からの企画がどこかであれば良いと思う。
武者小路実篤の「冬瓜と南瓜」の絵をみながら、これは相田みつをの遠い祖先に当たるのではないかとふと考える。白樺派の空想的で現実から乖離した能天気な理想主義と、相田みつを的なくたびれたサラリーマン向けの通俗応援メッセージとの間に横たわるものは何であろうか?
今回のベストは「白隠慧鶴 蘭蟷螂」を選ぶ。素朴画にふさわしく、カマキリが誠にかわいらしく描かれている。特に大きな点目がマンガチックで良い。
セカンドは小杉放庵「立石寺」。旅姿の芭蕉に、例の有名な句が添え書きしてある。渋い。
この美術館の2階展示室は「サロンミューゼ」という喫茶スペースになっていて、展示作品を見ながら軽食を摂ることが出来る。何とも優雅で贅沢だ。美術館内のこの手の飲食店としては、価格設定も良心的。ついでにこの美術館は入館料も300円と格段に安い。(すぐ近くの戸栗美術館は高い……。)
建築家は白井晟一。金曜は夜間開館をしている。
武者小路実篤の「冬瓜と南瓜」の絵をみながら、これは相田みつをの遠い祖先に当たるのではないかとふと考える。白樺派の空想的で現実から乖離した能天気な理想主義と、相田みつを的なくたびれたサラリーマン向けの通俗応援メッセージとの間に横たわるものは何であろうか?
今回のベストは「白隠慧鶴 蘭蟷螂」を選ぶ。素朴画にふさわしく、カマキリが誠にかわいらしく描かれている。特に大きな点目がマンガチックで良い。
セカンドは小杉放庵「立石寺」。旅姿の芭蕉に、例の有名な句が添え書きしてある。渋い。
この美術館の2階展示室は「サロンミューゼ」という喫茶スペースになっていて、展示作品を見ながら軽食を摂ることが出来る。何とも優雅で贅沢だ。美術館内のこの手の飲食店としては、価格設定も良心的。ついでにこの美術館は入館料も300円と格段に安い。(すぐ近くの戸栗美術館は高い……。)
建築家は白井晟一。金曜は夜間開館をしている。
テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術
冬の森ほど詩藻を掻きたてる空間はない。
これは枯淡や寂寥、
いわゆる侘び寂びの美を称揚する意味で言っているのではない。
無論そのような性質の美も冬の森には存在する。
しかしそれのみではない。
日本の冬の森こそは、
その言葉の最も素直な意味において豊饒な空間なのだ。
枯葉が風に舞い、大地に降り積もる瞬間までの軌跡は、
その一枚一枚が受ける、
その都度異なった空気抵抗の力によって、
一つとして同じものは描かれない。
厚く折り重なって巨大な絨毯となった落ち葉達は、
未来を待つ小さな生き物達を暖かく柔らかく包み込む。
踏みしめるたびに、清潔な乾いた音が靴の裏から伝わってくる。
葉の落ちた裸木の立ち並ぶ、いわゆる冬木立ちの光景は
荒涼の最たるものとして見る人が多いのだろうが、
生い茂る遮蔽物が無くなったことによって
陽の光が奥まで届くようになった真冬こそは、
森を巡る四季の中でも最も陽性な時間ではないだろうか。
そしてそのような、平野や都市近郊の森においては、
寒気を避けて山地から降りてきた様々な鳥達の声が聴かれる。
見通しの良くなった冬の森は、
隣人としての彼等に近づくのにもまた絶好の空間であるのだ。
※
柔らかき枯葉
優しき陽の光
日本の冬の豊穣の森
これは枯淡や寂寥、
いわゆる侘び寂びの美を称揚する意味で言っているのではない。
無論そのような性質の美も冬の森には存在する。
しかしそれのみではない。
日本の冬の森こそは、
その言葉の最も素直な意味において豊饒な空間なのだ。
枯葉が風に舞い、大地に降り積もる瞬間までの軌跡は、
その一枚一枚が受ける、
その都度異なった空気抵抗の力によって、
一つとして同じものは描かれない。
厚く折り重なって巨大な絨毯となった落ち葉達は、
未来を待つ小さな生き物達を暖かく柔らかく包み込む。
踏みしめるたびに、清潔な乾いた音が靴の裏から伝わってくる。
葉の落ちた裸木の立ち並ぶ、いわゆる冬木立ちの光景は
荒涼の最たるものとして見る人が多いのだろうが、
生い茂る遮蔽物が無くなったことによって
陽の光が奥まで届くようになった真冬こそは、
森を巡る四季の中でも最も陽性な時間ではないだろうか。
そしてそのような、平野や都市近郊の森においては、
寒気を避けて山地から降りてきた様々な鳥達の声が聴かれる。
見通しの良くなった冬の森は、
隣人としての彼等に近づくのにもまた絶好の空間であるのだ。
※
柔らかき枯葉
優しき陽の光
日本の冬の豊穣の森
松濤美術館の中央部は
楕円形の巨大な吹き抜けになっていて
天空から地下までが貫かれている。
その吹き抜けに架けられた橋の上から空を見上げると、
楕円に切り取られたことによって、
かえってその青さが増したようにも感じられる。
何だか既視感を覚える。
吹き抜けの内側から見ると、
ガラス張りの壁面に青銅色の柱が、
鈍重さを感じさせない程度の太さと間隔で規則正しく配され
静謐さを感じさせることに成功している。
地底の噴水から水音が聴こえる。
※
形無き空に形を与えんと
松濤美術館の天空
※
松濤の楕円に切り取る澄んだ空
迫る薄暮のその恨めしき
※
閉館時間を過ぎても何も言われないと思ったら、
夜間開館をしているのだった。
今日は幸運だ。
噴水がライトアップされる。
※
松濤の楕円の底より昇り来る
光と音と冬の冷気と
※
松濤の楕円の谷の噴水の
音と光と一人の夜空と
※
楕円の夜空を音を立ててヘリコプターが横切る。
既視感の正体は、
今年開業した東京メトロ副都心線の渋谷駅、
通称「地宙船」だ。
渋谷の地の底から楕円を見上げるという体験が共通している。
楕円形の巨大な吹き抜けになっていて
天空から地下までが貫かれている。
その吹き抜けに架けられた橋の上から空を見上げると、
楕円に切り取られたことによって、
かえってその青さが増したようにも感じられる。
何だか既視感を覚える。
吹き抜けの内側から見ると、
ガラス張りの壁面に青銅色の柱が、
鈍重さを感じさせない程度の太さと間隔で規則正しく配され
静謐さを感じさせることに成功している。
地底の噴水から水音が聴こえる。
※
形無き空に形を与えんと
松濤美術館の天空
※
松濤の楕円に切り取る澄んだ空
迫る薄暮のその恨めしき
※
閉館時間を過ぎても何も言われないと思ったら、
夜間開館をしているのだった。
今日は幸運だ。
噴水がライトアップされる。
※
松濤の楕円の底より昇り来る
光と音と冬の冷気と
※
松濤の楕円の谷の噴水の
音と光と一人の夜空と
※
楕円の夜空を音を立ててヘリコプターが横切る。
既視感の正体は、
今年開業した東京メトロ副都心線の渋谷駅、
通称「地宙船」だ。
渋谷の地の底から楕円を見上げるという体験が共通している。