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目白の森でムスリムと

2009/03/31(火) 23:43:56 [【08-09】電線上のハクビシン]

目白の森公園の管理人室反対側の門の近くで、
白人男性が一人、
玄関マットぐらいの黄色い絨毯を敷いて跪いている。
何度も立ち上がり、膝をついてはまた祈る。
イスラム教徒のようである。

その様子が珍しいので何となく眺めていると、
礼拝を終えたその男性が人懐っこく話しかけて来た。
髭を蓄えている。
強い香料の匂いがする。
最初は英語で、次いで日本語で会話をする。
メッカに向かって礼拝をしていたのかと確認すると、
そうだ、西を向いて祈っていたのだと答える。
チュニジア人だと言う。
地中海文化圏に属する北アフリカの人間のためか、
その外観はいわゆる欧米白人と余り変わらない。

何をしているのかと聞かれたから、
バードウォッチングだ、鳥を見に来たと答える。
双眼鏡や小型の野鳥図鑑を見せながら色々説明する。
ツバメのイラストを見て、
この鳥はチュニジアにも居る、自分はこの鳥が好きだと言う。
ツバメは日本には今はまだ居なくて、
夏の初めに南の国からやって来るんだと教えると、
南って、オーストラリアとかかと言うので、
いや、それだと遠すぎる、
大体中国の南や東南アジアの辺りだと言っておいた。



春の午後目白の森でムスリムツグミツバメの話する午後



やがて北国にツグミは去り、
南の海よりツバメが飛んで来て、
東から太陽が昇るように、
西にはメッカがあるのであろう。

西にはメッカがあるのであろう。



豊島区ツグミはまだシベリアに帰っていないようだ。
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吉川幸次郎『漱石詩注』1

2009/03/31(火) 01:37:38 [ボキャブライブラリー]

翠微:スイビ。緑の山。既出。
簫々:しょうしょう。しめやかなる。
空辺:空の端。
天際:空の端。
蒼靄:ソウアイ。ぼんやりしたかすみ。
号風:叫ぶ風。
半宵:夜中。
乗閑:ひまなのを良いことにして。
暗愁:理由のわからない憂い。
愁魔

WBCの中継

2009/03/28(土) 23:21:45 [短歌]

第二回ワールドベースボールクラシックの決勝試合の中継は、
日本時間の平日昼間に行われ、
人々はあるいは飲食店や家電量販店に設置されたテレビの前に
あたかも昭和三十年代のように群がり、
あるいは掌中の
携帯電話や携帯ゲーム機のワンセグ画像を注視した。
私達が生活する現在の日本の街に、
どれほどテレビモニターが遍在しているのか、
この久しぶりの国民的なイベントによって、
改めて思い知らされた感じだ。

それにしても、
そのイニングの合間に挟まれるCMは、
ロボットアニメのキャラクターを使った
パチンコの宣伝ばかり
何度も執拗に繰り返されたのが印象に残る。



蒼穹を遍く飛び交う電磁波
手の平にまで死闘を映して



蒼穹のファフナー流れる
熱闘の合間に
列島緊張緩んで



空想にまみれたアニソン三月の
空に溢れた球宴の春

春、ルナール

2009/03/27(金) 23:56:24 [詩文・俳文]

蛇、長過ぎる。
春、眠過ぎる。
けれども、
春、蛇起きる。

春の椿

2009/03/24(火) 00:45:48 [【08-09】電線上のハクビシン]

厚き葉の硬く弾いて反射する春の光線。
椿」は春の木

柳に春風

2009/03/22(日) 23:10:27 [【08-09】電線上のハクビシン]

春風の急にを揺さぶればヒヨドリ慌ててバランスを取る



春風に不意に吹かれてうろたえるの梢のヒヨドリ
青空

偽りのアウフヘーベン

2009/03/21(土) 23:09:56 [短歌]

偽りのアウフヘーベン気をつけよ
詭弁を弄して正義を挫く

限りなく紅に近い

2009/03/20(金) 23:11:53 [短歌]

限りなく紅に近い桃色の
春風に揺れるハナモモの花

中野新橋

2009/03/19(木) 01:14:44 [【シリーズ】山手線から三駅目]

東京地下鉄丸ノ内線の支線の車両が、
東京メトロ中野坂上駅の両側開きのホームに入線して来る。
丸ノ内線本線の上り新宿方面と、
下り荻窪方面の双方への乗り換えがスムーズにいくように、
ホーム間の位置関係は考慮されているのであろう。
三両編成の、
やや古びた雰囲気の車両で運行されているこの支線は、
朝夕の時間帯だけは、本線との乗り入れを行っているのだが、
日中は中野坂上と杉並区の方南町の間を往復するだけだ。
本線との接続を行うためか、
その待ち時間は、都心の鉄道としては結構長い。

中野坂上から一駅目、中野新橋駅の出口は一つしかない。
驚いたことに、駅構内のトイレは男女共用だ。



その一つしかない出口を出ると、
片側一車線のこじんまりとした車道の両側に
やはりこじんまりとした繁華街が存在する。
駅前にあるのは、ブックオフではなくブックマートだ。
こんな小さな駅の近くにも、
パチンコ屋が確実に存在しているのはあんまり愉快なことではない。

北側に向かってすぐの所を、神田川が流れている。
ここにかかっている橋が、駅名の由来の新橋だ。
その欄干は、和風の装飾を施されている。

橋の上から東側を望むと、
神田川の先に新宿副都心の高層ビル群がそびえたっている。
今は工事用の重機が視界の妨げとなっているため
完全なものではないが、
その通景はなかなか鮮やかだ。



高楼と
溝渠
交互に眺めつつ
直線上に連なりてあり



この街では神田川だけではなく、
東に向かって伸びる道路ならどこでもこの高層ビルが
視界に入ってくる。
中野区の本質は、
地理的にも経済圏的にも新宿の植民地であることが
実感できる風景である。

しかし、この位置からだと、
昨秋竣工したあの特異なフォルムの、
モード学園コクーンタワーは都庁などの裏側になってしまい
観察出来ない。

洪水防止工事のため、神田川の水は濁っている。

川を渡ってさらに北側の、
青梅街道や新中野、中野坂上に連なる道は登り坂になっている。
つまりは、この中野新橋付近は、
神田川が造った谷の底に当たっているのだろう。
神田川が削った低地に位置する中野新橋と、
台地上の新中野の関係は、
同じく神田川が造った谷である高田馬場と
高台である目白との関係に少し似ている。



神田川刻みし低地のこの街の
モスラの羽化は見えない橋上



駅から南側もやはり登り坂になっている。
住宅地を何と無く歩いていると、
街並自体にはほとんど何の変化も無いのに、
いつの間にか渋谷区に入り込んでしまったりする。

南東方向には、やや背が高い直方体の構造物がある。
二十三区に一つずつ建設されている、
例のゴミ処理施設の煙突にしては低いし、
複数本あるのも妙だと思って、
正体を確かめようと近づいて行くと、
山手通りに出てしまう。
首都高山手トンネルの排気口であった。



本郷通りという、東西に走る道路沿いに、
渡嘉敷ボクシングジムを見つけた。
また駅前の蕎麦屋で昼食を摂ったついでに尋ねると、
大相撲の貴乃花部屋があると言うので探してみた。
地元の通行人に聞いて、
普通の二階建て住宅と三階建てのペンシル住宅が混在する
住宅街の中を歩き回ってやっと見つける。
特に目立つ建築物でもないので、
何度かその前を気付かずに通り過ぎてしまった。

神田川沿いにコンクリート打ちっぱなしの神社があった。

ベビーカーを押した若い母親と、
小学生ぐらいの子供の姿が多い。
家々の庭木に、雀やメジロの長閑な姿が観察される。

三月中旬にしてはかなり暖かい春の日に、
蜜柑の木を手入れしている家がある。
大量の夏蜜柑が道に転がされている。



三月の路上に
蜜柑の摘果され
今年の桜は早いと聞かされ



帰りの中野新橋駅で、
そのホームの急カーブに初めて気づく。

若山牧水の短歌より2

2009/03/17(火) 05:31:55 [引用▼日本]

松葉かくおともこそすれみそさざいあをじあとりの啼ける向こうに



あの地味な鳥、
アオジを扱った文学作品を私は他に知らない。

ツクモ電機の消滅

2009/03/16(月) 04:57:37 [短歌]

三月の高田馬場にて。



何時の間にツクモ電機が潰れてて
F1ビルの剥き出しの床



一月のことだと言う。

富士・はやぶさ号最終列車

2009/03/15(日) 04:21:39 [短歌]

この三月の富士はやぶさ号の廃止により、
東京駅を発車するブルートレイン
完全に消滅するとのことで、
各種報道で盛んに取り上げられている。
多くの鉄オタが群がって歓声を上げる
その最終列車の出発の様子は、
ちょうど放送時間帯に当たる夕方の民放各社のニュースの中で
揃って中継された。



惜別の富士はやぶさ号見送りて
昭和の記憶も遠ざかりゆく



夜を駆けて人々の夢乗せ来る
青き走者も今セピア色

【ノート】前衛という袋小路

2009/03/13(金) 05:24:57 [【思索】詩作ノート]

物(経験的世界の事象)には、実用的要素(機能的要素)とメディア的要素が混在する。メディア的要素の下位区分として、美的要素や歴史的要素といった要素を考えることが出来る。歴史的要素のさらに下位区分として、例えばブランド的要素(ウェブレン財的要素)を考えることが出来る。

経験的世界における機能的要素とメディア的要素の比率や関係性は、必ずしも一定ではない。受け手(受容者)の側の感性が変化によって、それもまた変動する。受容者の側の感性は、その時代の社会経済的状況や、技術環境による影響を受け、かなりの部分がそれに規定されている。

物から機能的要素を捨象し、歴史的要素も捨象して、ただ美的要素のみを表現しようという試みが、ある種の前衛芸術には観察される。しかしその多くはウェブレン財的要素によってその価値を再規定、再限定されてしまう。(トム・ウルフ『現代美術コテンパン』。)その試みは、成功しているとは言い難い。(ビジネスとしては成功しているのかも知れないが。)



では、経験的世界の事象(つまりは物)以外の認識対象においては、この機能的要素とメディア的要素の関係はどのようになっているのだろうか? 例えば、言語という記号体系においては?

言語の最大の役割は他者に意思を伝達すること、コミュニケーションのツールであることである。つまり言語というのは、「メディア的であることがその最大の機能的要素である。」

詩的言語というのは、言語に宿る様々な要素の中から、その美的要素の部分だけを最大化した言語であると一応は定義出来る。しかし、言語から実用的要素を捨象して、ただ美的要素のみを表現しようという試みは可能だろうか? 不可能であると私は考える。

詩的なものと史的なもの

むしろ機能性が求められる状況・文脈の中で、つまりはある限定の中で美的要素を追及する方が、結果として優れた詩的表現が生まれるのではないか? 

音声(聴覚的世界)の規則に基づいて、人工的に設定された機能性のルールが押韻であり、定律である。

根津の煙突

2009/03/12(木) 03:14:29 [【08-09】電線上のハクビシン]

春の陽に
そっと銀色差し出して
空色浴びて根津の煙突



「宮の湯」という銭湯のものらしい。
歩いてみると他にも同じような銭湯の煙突が見つかる。

一階が店舗スペースとなっている雑居ビルや
個人住宅が立ち並ぶ中に混ざって、
根津には時折本当に歴史を感じさせる
和風の木造建築が今でも残っている。
ただ電線がやはりそのファサードの景観を妨げている。

雑居ビルの中に保育園があるようだ。

平日の昼間から鯛焼き屋に行列が出来ている。

夜明けのコンビニ

2009/03/10(火) 01:06:23 [【08-09】電線上のハクビシン]

旧友と痛飲し、徹夜明けの帰宅途中。



滑らかなまだ掃除中のコンビニの床の光沢踏みて朝知る



早朝の整頓された雑誌棚
モーニング』抜いて
とりぱん」だけ読む



肉体的に疲労しきって他のマンガのストーリーを追うエネルギーが無い。

春分を前にして既にかなり早くなっている三月の夜明けに、
私の庭の餌台にもたちが集っている。
朦朧とした私の精神も、少しばかり清明さを取り戻す。

電子の森の野鳥達

2009/03/09(月) 01:31:51 [短歌]

多くの人々が予測していた通り
ドラクエⅨの発売日が延期されたので、
同じニンテンドーDSの情報ソフトである
にっぽんの野鳥大図鑑』を、
何やら経営危機が囁かれる
ビックカメラのポイントを使って買うことにする。
三百種近くの野鳥のデータが、
地鳴きやさえずりなどの
様々な状況における鳴き声も含めて収録されている。
今まで書物上でしか知ることができなかった、
サンコウチョウのさえずりを始めて聞く。



DSで未知なる鳥の声聞けば
吾が心しばし山野を駆ける



掌の上の電子の鳥の声
二次情報にも心を揺らして



ツグミの地鳴きを聞くと、
背景音のカラスの鳴き声がやたらに大きい。
録音作業担当者の苦労が偲ばれる。
このノイズに、
人間の思うようには操作できない
現実の自然環境の「暖かさ」を感じる。



カラスらのツグミ邪魔するノイズこそ
電子の中の森の広がり

山田芳裕『へうげもの』第5巻より

2009/03/08(日) 00:35:30 [引用▼日本]

「そこで単刀直入に伺おう わび数寄の真髄をなんと心得る? いかにせば極渋の屋敷に仕上がる!?」
「そうさな……わしゃ昔京では名の通った商人だった……そらぁ凝ったわい……屋敷の障子紙から庭の苔までのぉ……しかし終ににゃあうるさく重うなった 茶の湯は置いとるモンで己を表し……客のほうはそれを読み解く遊びでもある だが考えてもみい……もしこの場が凝ったモンだらけだとしたら 趣を楽しむどころか読み解くのに疲れてしまうわ 今ならこれこのとおりよ これだけで充分楽しめるようになったっちゅうこっちゃ カッカッカ」

丿貫(山中に隠棲する利休の兄弟子の茶人)のセリフ



物には本来の実用的要素と、メディアとしての要素が共に宿っていて、そのメディア的要素の下位区分として、美的・美学的な要素と歴史的な要素が存在する。その歴史的な要素のさらに下位概念として、ブランド的要素(ウェブレン財的な要素・文脈的な要素)が存在すると考えることが出来る。

それらのメディア的な要素が余りにも肥大し過ぎると、人にとっては負担に感じられるということだろう。「終ににゃあうるさく重うなった」である。現在進行中のユビキタステクノロジーや拡張現実テクノロジーについても、似たようなことが言えるような気がする。

⇒リンク:メディア的要素と実用的要素の混在について書いた文章

⇒リンク:NHKアニメ『電脳コイル』と拡張現実技術について書いた文章

へうげもの 5服 (5) (モーニングKC)へうげもの 5服 (5) (モーニングKC)
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山田 芳裕

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啓蟄の雨

2009/03/07(土) 01:08:17 [【08-09】電線上のハクビシン]

啓蟄氷雨の朝を切り裂いてヒヨドリの叫び怒れるがごと



啓蟄の虫の気配も殺す雨

【ノート】メディア的要素と実用的要素の遍在及び混在について

2009/03/06(金) 01:29:35 [【思索】詩作ノート]

ある物に宿る実用性とメディア性について、最もオーソドックスに整理すればおおむね以下のようになるだろう。

例えば、一枚の壁があるとする。その壁は通常、実用的な構造物である。つまり外界から他者の視線を遮蔽するためであったり、侵入者を防ぐためであったり、風や雨からある空間を守るためにそれは設けられている。しかし、壁画が描かれたり、何かしらの案内や注意書きや、落書が描かれれば、その壁はそれらのメッセージを伝達するメディア(媒介手段)としての性質を同時に帯びることになる。

しかしこの整理だけでは、余りにも単純に過ぎ、現代の社会における「汎メディア化」とでも称するべき現象を充分に説明し得ないように私には思われる。

例えば次のような状況を想定みよう。ある壁が立っている。その壁には特に壁画や文章が描かれているわけではない。作られた時のままのただの壁である。そこに一人の建築史家がやってきてこのようなことを言う。「このレンガの壁は、日本の近代建築史の一コマを如実に伝えている。それ自体がひとつの歴史書であり、重要なメッセージを私達に伝えているのだ。」あるいは一人の美術家が現れてこんな事を言う。「この白壁の何の装飾もない美しさは、それ自体がひとつのアートである。」

このような場合、壁自体がひとつのメディアとして解釈されうる。

つまり、この世界に存在する全ての物は、実用的性質とメディア的性質の両者をそのうちに兼ね備えている。その対象物を実用品として解釈するか、ある種のメディアとして解釈するかは、実は観察者の側の感性の在り方、認識の在り方によって規定されている。かつて荒井由美は歌った。「目に映る全てのものはメッセージ」と。

しかしながら、そのような、受け手の側の感覚・認識の変容は、一体何によって生じうるのであろうか? 私達を取り巻く近代的・現代的なテクノロジーによって起こるものだろうか? あるいは、近代以降の社会・経済システムが、私達の内部にそのような変化(進化?適応?)を強いるのだろうか?

ウォルフガング・シヴェルヴシュ『鉄道旅行の歴史』を参照。この問題について考えをより進めるためには、ベンヤミンマクルーハンや、その他諸々のメディア論の思想家の考察を読んでいく必要があるだろう。)



そのような「受容者の認識の変容による世界のメディア化」を、あたかも外部化し具体化・現実化したようなテクノロジーが、グーグルマップやグーグルストリートビューであり、あるいは極小マイクロチップによるユビキタス社会であり、『電脳コイル』で描かれたよう拡張現実技術である。

(『電脳コイル』と拡張現実技術について以前書いた文章)

これらの技術には、もちろん現在指摘・批判されているようなプライバシー侵害の問題もあるのだと思うけど、それにもまして深刻なのは、人間の内面を強制的にチェンジさせる、その環境的な暴力性にあるのではないかと私は考える。騒音問題や過剰照明問題の、より複雑化した現代的な形態とでも言おうか。人々がそれらの技術にしばしば警戒感や嫌悪を抱く理由のひとつはそこにあると考えられる。



今後の課題。

1.それらの「汎在化するメディア社会」は、汎神論、日本的なアニミズム世界との類似性が連想される。しかしこの二つを、そんなに短絡的に結びつけて良いものなのだろうか? (それなりにきちんとした論理的な手続きであったり、迂回であったりが必要とされるのではないか?)

2.「メディア化」の下位区分として、例えば「審美化」や「メッセージ化」といった概念が考えられると思うが、それらの相違に関する検討。

3.言語に宿る実用性とメディア性についての検討。言語というのは、それそのものがメディアであるのだが、詩的言語とそうではない言語の関係について考える際に、以上で考えたような知見が応用できないか?

4.現代社会で現実におこっているそのような現象を、いかにして言語で描写し、表現するか?
(実践的課題)。

自画像

2009/03/05(木) 08:09:52 [短歌]

この街に生きる自分の自画像を描き直さん
ブログはキャンバス



新しき自画像常に描きたしと願う吾には
ブログはキャンバス

結城文『できるすべて』あとがきより

2009/03/04(水) 01:09:14 [引用▼日本]

……詩の歴史をさかのぼってみると、万葉集においてすでに、長歌反歌という詩空間を見出すことができる。ご承知のように長歌とは、五音、七音または七音、五音の音数律で詩句を連ねてきて、最後を七音、七音でうたいおさめる形式である。それに対して、通常一首以上の反歌をつける。

その場合の反歌は、長歌の内容を要約した短歌であるか、また、どちらかといえば叙事的な長歌に対して、作者の抒情を凝縮して提示する短歌であった。今回、そうした伝統の恩寵よりすこし自由になって、口語自由詩を書き、反歌としてではない短歌、むしろ連想などをもとにした短歌を、一、二首つけて新味のある詩の空間を得たいと思った。それは定型非定型との磁場にも、文語体口語体との磁場にもなるかもしれないとひそかに考えている。

……こうした試みは「詩と俳句」という形で、吉村郁久世氏がすでに行っていることであり、また海外でもアメリカ、マサチューセッツ在住のArt Stein など、同様の試みをしている詩人を最近発見したことはよろこびである。日々感受したことを表現するのに、その内容にもっともふさわしい詩の形式や空間が選べたならばと思う。



古本屋で偶然発見した「組詩」集のあとがきより。
私と似たようなことを考えていた人がやはり居たのだなと思う。
【ノート】コンポジションの表現思想に関する覚書

作者の歌人結城文氏については何も知らない。
ネットで調べてみたが、ほとんど情報が出て来ない。

フラッシュバック

2009/03/03(火) 00:29:03 [短歌]

あの人の記憶とともに思い出す
最も卑劣なあの時の僕



真夜中の風呂場に不意に沸きあがる
かくも激しき後悔の念



ぬるま湯の中を心が足掻く。

DSにっぽんの野鳥大図鑑

2009/03/02(月) 00:47:47 [未分類]

ニンテンドーDS専用ソフトではあるが、
いわゆるゲームソフトではない。
タイトルの通り、
日本野鳥の会が監修したデジタル版の野鳥図鑑である。
日本の鳥297種の画像・文字データとともに、
鳴き声も通常時、地鳴き・さえずりと収録してある。
また日本各地のお勧め野鳥観察スポットや、
野鳥に関する知識テストなどのコンテンツも豊富。

テイクアウト! DSシリーズ(2) にっぽんの野鳥大図鑑テイクアウト! DSシリーズ(2) にっぽんの野鳥大図鑑
(2009/02/26)
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モーニング連載の野鳥マンガ『とりぱん』を発信源とした、
最近のぷち野鳥ブームを受けたものだろうか?
このソフトは、「テイクアウト!DSシリーズ」の第2弾らしく、
数年前に出た第1弾は鉄道図鑑であるが、
それもやはり、鉄道情報マンガ『鉄子の旅』を中心とした、
当時の鉄オタブームを受けて企画されたものかも知れない。

DSのソフトウェアのラインナップは
ゲームに限定されず非常に多種多様な分野にわたっており、
少し後の時代になってからそのタイトルを眺めると、
その当時に何が流行っていたのか、
大まかな傾向がつかめるような気がする。
そのような現象は、
かつてのファミコンですら見られなかったものであり、
このハードウェアがいかに老若男女問わず国民の間に
(そして全世界に)普及しているのか、
その影響力が見て取れる。

シジュウカラの春

2009/03/01(日) 00:53:02 [【08-09】電線上のハクビシン]

清らかに
ソプラノ高く
シジュウカラ
冬の終わりと雨上がり告ぐ

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