(予め申し上げておきますと、以下に紹介するエピソードは、都市伝説でもフィクションでもないのです。)
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麻布の主婦が、物語る。
大晦日のその日も、かなり押し迫った時間帯のこと。
マンションのゴミ捨て場の前に、一人の年老いた老婆が座り込んでいる。
恰好から察するに、いわゆる
ホームレスらしきその老婆の前を通り過ぎてエントランスに入ろうとすると、向こうから挨拶らしき言葉をかけてくる。既に辺りも暗くなっていることであるし、身の危険も感じたので無視して急ぎ足で建物の中に逃げ込んだ。
ところが、自室に逃げ込んで安堵して、しばらく経つと、あの老人のことが何だかに心配になってくる。このような寒い中で一人どのように過ごしているだろうか? まだあのゴミ捨て場の前に座っているのだろうか? そもそも、あの老婆は何故、大晦日のこの日にあのような状況に立ち至っているのだろうか? 頼るべき親族の、一人も居ないのだろうか?
体格の良い大学生の息子に様子を見に行かせると、老婆は目撃した時のまま、その場所に居たと言う。会話をしてみると、不審な所や不穏な所はどこにもなく、ごく普通の意思疎通が可能な、穏当で常識的な人格の持ち主だと言う。そう聞くと、俄かに憐憫の情がわいてきたので、暖かい飲み物などを持たせて、再びその老婆の所に息子をやると、お礼だと言って幾つかの品々を取り出した。
一つは雑誌の類。
そしてもう一つは、極めてまともな、そしてまだ使った形跡の無い、食器であった。
老婆の曰く、これらの食器は自分が働いた結果、正当な手段で入手した物品である、恥ずべき所は一点もない品であるから、どうか貰って欲しいと。
ホームレスの老婆にも、その主婦と家族にも、それ以外の全ての人々と同じように二〇〇九年の終わりと二〇一〇年の正月がやって来た。
元日以降、その女の行方は杳として知れない。
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その主婦よりは一周り年少の、元
麻布三丁目で生まれ育った女性がこの話を聞いて、その老婆は、数年前まで
有栖川公園で目撃された女
ホームレスではないかと言う。
自分の母親も、老女の
ホームレスを見たと言っていた。
数年前に、都の役人による公園の
ホームレスの強制退去が執行されて以来、その目撃情報は途絶えたが、もしかしたらその人ではないかと。
真相はわからない。
ああいう、どこと言って変な所も無い、ごく普通の人が、一体どうしてあんな境遇に陥ったのかと、この話を語り終わってからしばらくは、主婦も不思議そうにしていたが、しかし以降は彼女のことが口の端に上ることも無く、いつものように、この春に大手ゲームメーカーへの就職が決まって京都で一人暮らしを始めるという、慶応の四年生の自身の長男の話ばかりになった。
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聖/賤のあわいに座せる大歳の
麻布の女
ホームレス消
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淡々と冷たく硬く尽きてゆくゼロ年代の最後の一日
テーマ : 短歌
ジャンル : 小説・文学