スポンサーサイト

--/--/--(--) --:--:-- [スポンサー広告]

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

【オープンマイク】Open Mic/ wonder-words Vol.2に参加してきました【神楽坂】

2011/09/30(金) 23:53:42 [お知らせ・近況報告]

神楽坂のカフェ、キイトス茶房さんにて、2011.9.25に開催されたオープンマイクイベント、
OpenMic/wonder-words、Vol.2に参加して来ました。

(同イベントは、オープンマイクイベントの会場として伝統のあった
高田馬場のBen's Cafeの閉店に伴い、その後継として企画されたとのことです。)

青条は『電線上のハクビシン』より連作短歌「内神田尾嶋公園」を朗読してきました。

主催者の方々(服部剛さん/rabbitfighterさん/しえろ文威さん)と、
当日私の拙い作品を聴いて下さった方々に、改めて御礼を申し上げます。

OpenMic/wonder-wordsのブログ
http://wonderwords.seesaa.net/

キイトス茶房さんのサイト
http://kiitosryo.blog46.fc2.com/
スポンサーサイト

鏡の中の波

2011/09/30(金) 02:39:17 [【10-11】福島の向日葵に捧げる歌]

 池袋西口公園の隣にある東武のレストランビル、スパイス2の壁面が波打っている。
 道を挟んで向かい側のメトロポリタンビルにかけられた工事用シートが風に吹かれてなびく様子が、そのガラス面に余りにもはっきりと映っていたのでそのように見えたのである。透明度が高い海なんかだと、水上から眺めるよりも、むしろ揺れる陽光を海中から見上げた方が、波の姿が良くわかるというような話をどこかで聞いたことがあるような気がするが、この場合もそれに近い。磨き抜かれたガラスの中に風そのものを見た気がする。

サンシャイン国際水族館リニューアル

2011/09/29(木) 08:01:09 [【10-11】福島の向日葵に捧げる歌]

 八月上旬のリニューアルオープン以降、サンシャイン国際水族館の前にはとてつもなく長い行列が夏の間中ずっと出来ていた。正確に言えば、水族館のある屋上階へ直通する一階のエレベーターの前に延々と連なり、アルバイトと思われる整理員が待ち時間表示のプラカードを掲げて大声で誘導に当たっていた。池袋駅東口からサンシャインビルに通じるサンシャイン通り(東急ハンズや映画館やブックオフの通り)は朝から早足で押し寄せる人波で埋め尽くされる。その熱狂が少し落着きを見せ始めたのは、九月も半ばになってからであるが、それでも入場券売り場では少し待たされたので、ファミリーマートで見かけた時に前売り券を買っておけば良かったなと少し後悔した。
 入口からいきなり違っている。リボンウオの一種の深海魚、リュウグウノツカイ(あんとくさま)の標本が、無い。どうして撤去されたのか、どこへ行ったのか、気になる。一番最初の展示スペースの水槽には、水が入って魚が泳いでいる。水族館だからそれで当然なのだが、以前はそうではなかった。このアクリルの向こうの閉鎖空間には青空の写真が貼られて、ミナミコアリクイの赤ちゃんが眠っていた。
 珊瑚の海の海底から、カラフルな小さなアナゴが時々顔を覗かせる。ゆらゆらと揺れながらつぶらな魚眼でどこかを見ている。その様子が、女性達には非常に好評のようだ。ムーミンに出て来るニョロニョロにどこか似ているとふと思った。
 もう休みは終っているので、子供の姿はないだろうと予想していたが完全に外れた。引率の保育士か教諭かに連れられて陸続と姿を現わす園児達。一群ごとに色違いの帽子を被っているのは、組の識別のためであろう。深海生物を展示した暗めの水槽で腹を見せてゆっくりと動く巨大な蟹に、男児達が一斉に群がり奇声をあげる。甲殻類のメカっぽい挙動にテンションが高くなる気持ちは、かつて少年だった者として良くわかる。今日は何だか騒々しくて奇妙な生物が大量に来たなと蟹の方でも思っているだろう。その気持ちも良くわかる。
 そして、修学旅行か社会科見学かでやってきたと思われる制服姿の中学生か高校生。

 潜水服を装備したダイバーのお姉さんが巨大水槽の中に入って行うパフォーマンスは、以前もここで見た記憶があるが、その時と比較して水槽の中も見学者が集う広場も、明るく見通しが良くなったように感じる。ダイバーが餌を振り巻きながら客の前を行ったり来たりすると、種種の魚達もそれを追いかけて盛んに泳ぎ回る。妖精に囲まれた天女である。またその姿をデジカメや携帯のカメラが追いかける。この夏はスキューバダイビングの宣伝を池袋駅南口の路上で良く見かけて、その時は何でこんなに大音量のJポップを鳴らしているのかとしか思わなかったが、こうして見ると知的で審美的な趣味である。もちろん、職業ダイバーとしてこんな晴れ舞台に立てるのは、ダイバーの中でも極一部、プロ中のプロ、エリート中のエリートなのだろうけれど。
 お姉さんが砂の中に隠した餌を、何とか言う魚が下付きの口で巧みに吸い取って食べている。



 資金の問題を別にすれば、美術館はどこにでも出来る。田舎でも山奥でも出来る。長野県の美ヶ原高原、箱根の森、千葉の山奥の川村美術館など、僻地の美術館など私が知る範囲でも幾つでもある。コンサートホールや劇場は、さらに容易に、どこにでも出来る。しかし、水族館はそうはいかないだろう。水棲生物を扱うというその特性上、新鮮な海水や淡水の補給が恒常的に容易な立地、つまり海辺や水辺が基本的には望まれるはずだ。もしくは、大量の自然水の迅速な輸送が可能な、交通網の発達した土地。
 駅の両側の二つのデパートにそれぞれ在った美術館が姿を消したことは、文化都市としての池袋にとって小さくない打撃であったであろう。特に、現代美術の展示と紹介に熱心で、ある時代のアートシーンやカルチャーシーンを先導したと言われる西武美術館の消滅によって、池袋の文化的イメージは大きく下落した。芸術劇場は現在工事中である。
 しかしそれでも、池袋には水族館がある。
 池袋の後背地は、東京城北部、多摩地域の一部、そしてその先の埼玉である。湘南新宿ラインの運行開始以後は、栃木と群馬もその勢力圏に組み込まれた。それら一都三県の植民地から、池袋はたえずプレッシャーをかけられる。東京六大ターミナル駅の一角に相応しい威厳と実力を、彼らに対して示さなければならない。
 美術館は無くなった。劇場は休んでいる。しかしそれでも、池袋には水族館がある。
 池袋には、海がある。
 池袋には人工の海があって、それはビルの屋上にあって、絶えず莫大な費用と労力をかけて維持管理されている。何故それが可能なのか? 池袋が金と人とが集まる正真正銘の大都市であって、かつ高速道路のターミナルという交通上の要衝を有してもいるからだ。そして池袋の配下である埼玉、栃木、群馬には、いずれも海が無い。北関東の乾いた大地に閉じ込められた県民達に対して、その経済力と文化力をもって、本来ならば存在しない空間に人造の海を池袋は誇示する。(もちろんその存在意義は、もともと海がある品川や横浜とは違っている。)池袋のプライドは保たれる。池袋は、北を向いて高らかに言う。海が見たければ、私のところまで来たまえ。池袋線か東上線か、もしくは湘南新宿ラインに乗って。

 水族館にも水族館の地政学がある。(いや、この場合は水政学と言うべきか?) 後になって以上のようなことを考えている時に、ふとマンボウの顔を思い出した。ここまで書いてきたことを要約すれば、マンボウが池袋を守っていると言えるのではないかと思った。あの茫洋とした無我と無意識そのものの静かで穏やかな佇まいはいかにも守護神に相応しい、少なくとも常に観客のウケを狙うせわしない自意識過剰の舞台俳優であるアシカよりは頼もしいと思ったけれど、そんなことはマンボウ当人にとってはどうでも良いことだろうと思い直した。
 
 ※

 アシカショーのステージは、普通の四角形のものから、観客が周囲を囲むひょうたん型のものに変わっている。 屋外の露天のアクリルケースの一隅に、ミナミコアリクイが普通に眠っているのを発見する。アルマジロやフェリック狐といった、似たような体格で大人しそうな動物達と同居していて、特別扱いはされていないようだ。たとえ高層ビルの谷間から見上げる僅かなものであっても、本物の空と雲とがあるのは動物としてやはり幸せだろう。

ただ水が

2011/09/27(火) 00:45:38 [短歌]

ただ
水が飲みたいだけだ
ビールすら要らない
午後の無為の灼熱

その線量

2011/09/26(月) 23:22:17 [【10-11】福島の向日葵に捧げる歌]

この街の
女も既に
放射線より
紫外線
とかを気にする

ならば

ちゃんと降れよ

2011/09/24(土) 03:03:34 [短歌]

(路上詩人の苛立ち)



どうせなら詩人も諦めるようにちゃんと降れよと思ってしまう

ループの形

2011/09/24(土) 02:39:43 [定律・アフォリズム]

 世界的に有名なある映画監督の言うには、歳を重ねるに連れて人が成長するというのは幻想で、実際には人間は一生の間同じ所をグルグルと周っているのに過ぎないのかもしれないと。そうだとしても、どうせなら出来るだけ美しいループを描きたいと思う人もいるだろうし、不格好でも豪快に大きな輪を描きたいという人もいるだろうから、それぞれの理想に向かって努力したり前進したり挑戦したりすることが無駄になるわけでは全く無い。

いつか来た道

2011/09/23(金) 01:38:12 [定律・アフォリズム]

「お前が今いる場所は、遥か昔にこのオレが通り過ぎた道に過ぎない。このウスノロがっ!」
「同じ道であっても、お前みたいなマヌケとは全く違う風景がオレには見えている。」

【オープンマイク】吉読Vol.10に参加してきました【吉祥寺】

2011/09/23(金) 00:47:02 [お知らせ・近況報告]

2011年9月17日夜、
吉祥寺のカフェバー、「mahalo」で開催されたオープンマイクイベント
「吉読」Vol.10に参加して来ました。

青条はこの日、トップバッターでした。
自著『電線上のハクビシン』より、連作短歌「内神田尾嶋公園」を朗読してきました。
また、明後日が誕生日である主催者の守山ダダマさんに、
僭越ながらケーキなどをプレゼントしました。

当日、私の拙いパフォーマンスを聴いて下さった方々に、御礼を申し上げます。

「吉読」のインフォメーションブログは以下になります。
↓↓↓
http://blog.goo.ne.jp/kichidoku


(また、ダダマさんは多忙な中、9月19日の午後、池袋で路上活動中の青条を応援に来て下さいました。
鯛焼きの差し入れを頂きました。
この場をかりてお礼を申し上げます。)

黄嫌

2011/09/22(木) 01:53:26 [短歌]

黄昏の黄の字が孕む嫌悪とか



秋にして再認識する黄昏の黄の字が放つ媚態の不潔

大手拓次「風の中に巣をくふ小鳥」より

2011/09/22(木) 01:20:28 [引用▼日本]

あなたをはじめてみたときに、
わたしはそよ風にふかれたようになりました。
ふたたび みたび あなたをみたときに、
わたしは花のつぶてをなげられたように
たのしさにほほえまずにはいられませんでした。
あなたにあひ、あなたにわかれ、
おなじ日のいくにちもつづくとき、
わたしはかなしみにしづむやうになりました。

まことにはかなきはゆくへさだめぬもののおもひ、
風のなかに巣をくふ小鳥、
はてしなく鳴きつづけ、鳴きつづけ、
いづこともなくながれゆくこひごころ。

台風通過中

2011/09/20(火) 01:00:01 [【10-11】福島の向日葵に捧げる歌]

今はもう巨大な風にどの部屋も僕の詩集も包まれている

大手拓次「うしろをむいた薔薇」より

2011/09/20(火) 00:07:26 [引用▼日本]

ばらよ、
おまへはわたしのしらないまにさいてしまつた。
わたしのむねにありともしない息をふきかけて、
おまへはつつましくさいてしまつた。
にほひのきえようとするはるかなばらのいとほしさよ、
もつとわたしへ手をのばしてください、
ふしめして、うなだれて、うしろをむいた白ばらの花よ。

神田神保町にて

2011/09/19(月) 01:17:54 [俳句]

流藻に岐路あり古書の海の夏

大手拓次「鈴蘭の香料」より

2011/09/19(月) 00:53:42 [引用▼日本]

しろい月のようにわたしのからだをとりまくおまへのことば、
霧のこい夏の夜のけむりのように、
つよくつよくからみつく香のことばは、
わたしのからだにしなしなとふるへついている。

駐輪場で台風を待つ

2011/09/18(日) 02:41:02 [短歌]

自転車のサドルは既に熱く焼け正午までまだ一時間ある



自転車のサドルはとうに陽に焼けて台風はまだ小笠原沖

大手拓次「森のうへの坊さん」より

2011/09/18(日) 01:25:07 [引用▼日本]

坊さんがきたな、
くさいろのちひさなかごをさげて。
鳥のようにとんできた。
ほんとに、まるで鴉のような坊さんだ、
なんかの前じらせをもつてくるような、ぞつとする坊さんだ。
わらつているよ。
あのうすいくちびるのさきが、
わたしの心臓へささるような気がする。
坊さんはとんでいつた。
をんなのはだかをならべたような、
ばかにしろくみえる森のうへに、
ひとひらの紙のように坊さんはとんでいつた。



僧侶がまとう死の気配。
吉岡実の四人の僧侶を想起させる。

蝉達の事実

2011/09/17(土) 01:36:06 [【10-11】福島の向日葵に捧げる歌]

そうじゃない。
事実は逆だ。
蝉達の抗議が雨を追い払うのだ。

大手拓次「めくらの蛙」より

2011/09/16(金) 23:40:26 [引用▼日本]

闇のなかに叫びを追ふものがあります。
それはめくらの蛙です。
ほのぼのとたましひのほころびを縫うこえがします。

あたまをあげるものは夜のさかづきです。
くちなし色の肉を盛る夜のさかづきです。
それはなめらかにうたふ白磁のさかづきです。

蛙の足はびつこです。
蛙のおなかはやせています。
蛙の眼はなみだにきずついています。

頑迷の所以

2011/09/14(水) 06:23:48 [短歌]

内面のその頑なさは誰からも愛されてないことに由来する

大手拓次「怪物」より

2011/09/14(水) 05:47:02 [引用▼日本]

……
顔は三月の女鴉のように憂鬱にしづみ
四つの足ではひながらも
ときどきうすい爪でものをかきむしる。
そのけものは、ひくくうめいて寝ころんだ。
曇天の日没は銀のやうにつめたく火花をちらし、
けもののかたちは、黒くおそろしくなつて、
微風とともにかなたへあゆみさった。

(メモ)反省点・固有名詞について

2011/09/13(火) 07:58:06 [未分類]

反省点
・固有名詞に引きずられ過ぎる。
・固有名詞を詩的表現の中で生かすということが出来ていない。
・記録に対する欲望、執着が強すぎる。
・その結果、何を書いても散文的になってしまう。
・もしくは、ただの説明になってしまう。
・説明になってしまうのは、自分の中に読み手に対する不信感があるからかも。
・もしくは、読み手を想定した上で、適切な距離を取るという作業が出来ていないからか。
・しかしそんな作業は、別にしたくもない。
・重要なのは、とにかく生産すること、アウトプットすること。
・結局、エッセイみたいなものが一番自分の好きなジャンルなのかも。
・何だかわからないものだけど、自分の生産物が言葉(日本語)によって表現されたものであるということだけは確かである。
・何にせよ、ガシガシアウトプットしていく以外に無い。

大手拓次「日輪草」より

2011/09/13(火) 07:17:01 [引用▼日本]

そらへのぼつてゆけ、
心のひまわり草よ、
きんきんと鈴をふりならす階段をのぼつて、
おほぞらの、あをいあをいなかにはひつてゆけ、
……
正直なひまはり草よ、
鈴のねをたよりにのぼつてゆけ、のぼつてゆけ、
空をまふ魚のうろこの鏡は、
やがておまへの姿をうつすだろう。

その地続きであるということ

2011/09/12(月) 08:04:35 [短歌]

 アドリア海に面した北イタリア東部の港町、トリエステについて私が有している知識は、ごく限られた平板的なものに過ぎない。東西冷戦時に両陣営を隔てた鉄のカーテンの南端であるという受験世界史的な知識と、詩人ウンベルト・サバの出身地であることと、その訳者である須賀敦子のエッセイから得た印象ぐらいしか持ち合わせていない。特別な思い入れがあるわけでもなく、もちろん実際に行ったことはない。
 その名前が最近脳裏にしばしば浮ぶ。旧ユーゴスラビア国境とそれほど離れていないこの街の人々は、九十年代のユーゴ内戦をどのような思いで眺めていたのかが気になっている。NATOの空爆や民族浄化といった凄惨な光景で知られるユーゴの戦場と、地続きであるトリエステとの実際の距離はどれぐらいあったのだろう? それは高レベル放射能を浴びつつ現在も作業が続けられている福島第一原発の事故現場と、この東京との距離より近かったのか遠かったのか?
 ユーゴとイタリアの間にはかつて鉄のカーテンが在った。福島と東京の間にかつて在ったものと言えば、せいぜい白河の関(?)ぐらいのものだろう。ユーゴとイタリアの間には今でも国境線があって検問所があるだろうが、福島の現場と東京の間には県境しかないのにやはり検問所がある。ユーゴスラビア人はイタリア人から見て外国人であるが、福島の作業員は東京人から見て同じ日本人のはずである。
 もし私達が鈍感で、それゆえ冷酷な人間だとしたら、そのことは単に物理的な距離に還元しうる問題なのか、それとも島国の国民であることに由来する国民性、民族性の反映なのであろうか?



靴裏が最前線まで繋がれていることを知れ島国の人



 それでも、自己防衛に関しては皆それなりに敏感で熱心で、地続きではない別の島である北海道のミネラルウォーターや九州の魚や野菜は今大人気であるという。

大手拓次「法性のみち」より

2011/09/12(月) 06:50:28 [引用▼日本]

わたしはきものをぬぎ、
じゆばんをぬいで、
りんごの実のようなはだかになつて、
ひたすらに法性のみちをもとめる。
わたしをわらふあざけりのこえ、
わたしをわらふそしりのこえ、
それはみなてる日にむされたうじむしのこえである。
わたしのからだはほがらかにあけぼのへはしる。
わたしのあるいてゆく路のくさは
ひとつひとつをとめとなり、
手をのべてはわたしの足をだき、
唇をだしてはわたしの膝をなめる。
すずしくさびしい野辺のくさは、
うつくしいをとめとなつて豊麗なからだをわたしのまへにさしのべる。
わたしの青春はけものとなつてもえる。

夜に蝉

2011/09/11(日) 02:57:24 [【10-11】福島の向日葵に捧げる歌]

午後からは猛暑が戻った。
気付かずに蹴飛ばした夜に蝉が生きている。

大手拓次「白い髯をはやした蟹」より

2011/09/11(日) 01:47:00 [引用▼日本]

おまへはね、しろいひげをはやした蟹だよ、
なりが大きくつて、のさのさとよこばひをする。
幻影をしまつておくうねりまがつた迷宮のきざはしのまへに、
何年といふことなくねころんでいる。
さまざまな行列や旗じるしがお前のまへをとおつていつたけれど、
そんなものには眼もくれないで、
おまへは自分ひとりの夢をむさぼりくつている。
ふかい哄笑がおまへの全身をひたして、
それがだんだんしづんでゆき、
地軸のひとつの端にふれたとき、
むらさきの光をはなつ太陽が世界いちめんにひろがつた。
けれどもおまへはおなじようにふくろうの羽ばたく昼にかくれて、
なまけくさつた手で風琴をひいている。

反ペデストリアンデッキ小論

2011/09/10(土) 03:08:53 [詩文・俳文]

 鉄道駅もしくはその付近の建造物のすぐ脇の、線路と並行に走るそんなに広くもない道路に、バスが半ば強引に進入してくる風景が好きであることに最近になって気がついた。接触事故を防止するために、バス会社の係員が人参棒を懸命に振って誘導に努めている側を歩行者が通り過ぎたりする一コマに、街の雑然とした生命力を感じる。だから、例えば吉祥寺では北口より南口の駅前の方が好ましい。一昔前の小田急沿線あたりには、割とそういう感じの駅があったように思うが、今はどうなっているのか良くは知らない。
 これに反して、ペデストリアンデッキは、明らかにその駅前の風景を平板化し画一化してしまうと思う。歩行者と、バスやタクシーのターミナルが完全に上下に分離するのは確かに機能的で、乗降客が多い駅では必要とされる工事なのだろう。デッキ上は車両に妨げられずに歩行者だけを確実に捕捉できる場所なので、ストリートミュージシャンや路上詩人にとっては活動がしやすいという側面も確かにある。しかしその空間からは、バスと歩行者のように異なるスケールの動作主体(プレイヤー)の動線が交錯することで発生する躍動感が失われている。
 北千住駅の西口にペデストリアンデッキが出来たことによって、駅のすぐ横にあった「笹陣」という立ち食いソバの旨い店が影に隠れてしまい、ほどなく閉店してしまった。それはもうゼロ年代の半ばのことであり、この文章を書いている最中に不意に思い出した。それなりに並べてみた小理屈の下に、小さな食べ物の恨みが隠れていたようである。

大手拓次「憂いは私を護る」より

2011/09/10(土) 01:52:07 [引用▼日本]

憂はわたしをまもる。
のびやかに此心がをどってゆくときでも、
また限りない瞑想の朽廃へおちいるときでも、
きつと わたしの憂はわたしの弱い身体を中庸の微韻のうちに保つ。
ああ お前よ、鳩の毛並のようにやさしくふるへる憂よ、
さあ お前の好きな五月がきた。
たんぽぽの実のしろくはじけてとぶ五月がきた。
お前は この光のなかに悲しげに浴みして、
世界のすべてを包む恋を探せ。

虚無が欠落している

2011/09/09(金) 01:08:14 [短歌]

自尊心自意識自我自恃充ち溢れ虚無から最も遠い自画像



礼儀とは表面張力自意識がはち切れないようこらえる力

| HOME | Next Page »

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。