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谷川雁「無を噛みくだく融合へ」より

2010/10/17(日) 21:00:13 [引用▼日本]

昨年九十六日のストを戦った佐賀県杵島炭坑のコーラス団が九州のうたごえに出場して「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」というあれを歌った。その練習のとき「いったい、ふるさととは何だろう」と話合ったら、二度夜逃げをし、三度父が変わった労働者などはまだましな方だった。故郷の実感といってもどこが故郷やら、実感やら見当もつかない者が多く、「故郷はこれから作るべきものだ」という結論に落ちついた。この場合、彼等にはもう真の故郷が見えはじめているわけだ。故郷の実在する者よりもさらに強い実在感覚が故郷の欠如という形で与えられているのだ。この状況を延長すれば、所有の意識で支えられているすべての感覚は、あたらしい所有形態―共有―で獲得しようとする目下の欠如に対して、やはり一種の中間性を示しているというべきだろう。すなわち二種類の無が存在する。防衛する無と攻撃する無が。この二つの無の葛藤を促進する触媒が我々の詩でなければならないのだ。



 炭坑労働者のフォークロアを集めた『地の底の笑い話』という本(岩波新書青)を思い出させる記述。
 それにしても後半部分は楽観的過ぎる。我々の現実を規定しているのは、意識でも理念でも思想でも無く、実体だということを、この時代の観念左翼はやはり全く理解していなかったのだろう。足りない脳味噌の中でいくら概念操作を行ったとしても、過去は変えられない。悲惨な個人史も変わらない。その、労働者達の悲惨な現実を隠蔽して、自らの知的遊戯のための遊び道具にすることの方が、よっぽど悪質だ。しかも自分自身は知識人としての有名性と特権性に守られた場所から。
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