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マンボウとバニラ

2011/07/09(土) 03:13:27 [詩文・俳文]

 人間における視覚は選択と集中による情報収集をその特性とする感覚であり、聴覚は包括と網羅による情報収集をその特性とする感覚である。つまり人は、見たいものだけを見ること、見たくないものを見ないために眼を閉じることは出来るが、聴きたい音だけを聴くことや、聴きたくないものを聴かないために耳を閉じることは出来ない。睡眠時において眼は蓋をされているが、耳は常に開かれている。
 選択と集中のために人間の眼は顔の正面にあって二つとも同じ方向を向いている。そのことによって人間は既知の対象物を精密に観察出来る。包括と網羅のために人間の耳は顔の両側でそれぞれ反対方向を向いている。そのことによって未知の異変を全方位から知覚しうる。
 そのようにして、人間の視覚と聴覚は役割分担をしている。
 これが他の動物だったら、例えば馬のように眼が一八〇度逆についていたり、兎のように耳が二つとも同じ方向を向いていたりする場合もある。それぞれが置かれた環境や辿って来た進化の過程において視覚と聴覚の役割分担が人間とは異なっていたため、それぞれに必然性をもってそのような形状となったのである。当事者達にとっては特に不思議もなければ不便もない。

 しかしながら、テクノロジーによってこの自然的な役割分担が変更される場合がある。二〇世紀の後半において、日本のある電機メーカーが携帯音楽再生機(ウォークマン)なるものを発明した。音楽を個人的にどこにでも携帯出来る小型電機製品である。当初はカセットレコーダーであったが、技術の進歩に伴いCDやMDプレイヤーになり、現在は電子化された音楽ファイルを出力する端末がその後継の位置を占めているが、根幹は変わらない。 これらは皆、聴きたい音楽を聴く道具であるが、同時に聴きたくない音を遮断する道具でもある。つまり聴覚の自然的な分担範囲である、包括と網羅を否定して、選択と集中を行わせる技術である。
 人々の聴覚が包括と網羅を拒否して、選択と集中に閉じ籠ったならば、次は何が起きるだろうか?
 選択と集中を本来分担していた視覚に、包括と網羅を担当させるのが、情報発信者としては最も合理的な戦略である。
 つまり、人々が好むと好まざるとにかかわらず、その視界内に強引に飛び込んでいくしかない。
 こうして、人々がイヤホンを装着しながら歩く現代の街には、やたらに自己主張が強くて下品な看板や、巨大なハイビジョンが大量に溢れるようになった。日本の都市の景観は他の先進諸国と比べて圧倒的に醜いと言われることがあるが、その醜さは日本がウォークマンの発明国であることと無関係ではないだろう。

 そして、視覚的にも聴覚的にも最も低劣で空虚な、ラッピングトレーラー
 繁華街の車道を徘徊する彼らの中でも、新宿ならマンガ喫茶マンボー池袋なら高収入女性求人サイトのバニラ、この二つは余りにも頻繁に目にする。後者の宣伝ソングなど遂に覚えてしまった。何度も視界に入って来るので、この歌を歌っているのは誰なのか、声優さんがアルバイトでもしているのか、そんなことを考えているうちに思考が迷路に入って、視覚と聴覚についてこんな思いを巡らすことになってしまった。
 目覚まし時計は聴覚によって睡眠からの覚醒を促すのだから、耳覚まし時計と呼んでも良さそうなものだと思う。
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