東京モノレールとゆりかもめの間

2014/01/06(月) 17:22:25 [【13-14】※現在工事中です]

 東京モノレールの、浜松町から天王洲アイル間の車窓には、その南西の海側を走るゆりかもめの姿が、存外に良く見える時間帯がある。浜松町を発車し、浜離宮庭園の上空を通過してから暫くの間は、群生する雑居ビルの隙間から垣間見るだけだが、レインボーブリッジを仰ぎ見る辺りに差し掛かると、視界が広く拓けその全容がほぼ見渡せる。ゆりかもめの乗車体験を晴れやかなものとしている最大の要素、あの芝浦側のループ構造の大きなカーブを、或いは登り或いは下って一周していく車両の姿を、タイミングが合えば目撃出来るだろう。東京湾岸の遠景の解放感が爽快さに華を添える。
 見る者はまた同時に見られる者でもあり、従ってゆりかもめの側からも、東京モノレールの姿を見ることは出来る。しかしながら、その印象はさほど強いものではない。竹芝や日の出の付近において、注意深い人間が北側の車窓を予め意識して観察していたら、建造物の隙間から、時折僅かに、その架線を視認出来る可能性があるという程度だ。ループ構造の勾配を走行中に北西の方向を探してみたら、あるいはモノレールの雄姿をもっと明確に観察出来るのかもしれないが、ほとんどの乗客はもっと存在感があって物珍しい景観、例えばレインボーブリッジ本体、海面を航行する屋形船やその他の船舶、円形のカーブとともに刻々と変化する方角そのものなどに視線を奪われてしまうだろう。
 建設された時代も、設計思想も大きく隔たっているが、港区のJR山手線駅を起点として、東京湾岸の埋立地に所在する種々の施設を結んで疾走する新交通システムというのが、この両者の共通点である。だが、その関係性は以上のように非対称的である。この非対称性は、両者の構造の差異にも由来している。ゆりかもめの架線の両側には、普通の鉄道を同じように柵が存在するのに対し、東京モノレールの窓には視界を遮るものが何も無い。窓の外に在る物は、側面も眼下も全てを景色として観賞することが出来る。
 こうして東京モノレールは、天王洲アイルや競馬場を経て流通センターに向かい、ゆりかもめは台場や船の科学館を経て国際展示場前に向かう。
 東京モノレールゆりかもめの関係性は、何かの象徴ではないかとふと思った。東京モノレール流通センターは「文学フリマ」略称文フリの会場であり、国際展示場は言うまでも無く「コミックマーケット」略称コミケの会場である。
 東京モノレールの側からはゆりかもめが良く見えるように、文フリ側はコミケの動向を意識している。一方、ゆりかもめ側からは東京モノレールがさほど見えないように、コミケ側は文フリをほとんど気にしていない。それでも、両者は元々似た所から族生したイベントであり、守備範囲にも重なる部分がある。東京モノレールとゆりかもめとに、やはり何処か似た所があるように。
 文フリに向かう人々と、コミケに向かう人々との岐路は、どこにあったのだろう。両者とも、思春期という時代、学校という社会においては類似した自我や実存の所有者だったのではないか? それとも、新橋と浜松町が隣接しながらも最初から異なる二つの駅であるように、この二種の人々も、どこか似ているけれども最初から異なる存在だったのだろうか? もちろん、現代は創作活動においてボーダーレス化が進展した時代でもあるので、両方に足を運ぶ、もしくは出展するという人も少なくないだろうけど……。
 今、僕は、とりあえず文フリに向かっている。カートを曳いた乗客の過半は、もちろん羽田空港の利用者で、普段から別に珍しくもないだろうけど、今日に限ってはその中に旅行道具ではなく自著を詰め込んだ人々が何割か混ざっている。鉄道会社に特別ダイヤを組ませるほどの勢力では、まだない。知人のブースの手伝いだが、自著も頑張って売りたい。
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